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2014-02-25

実家目線のパソコン考

実家のパソコンを買い替えるか、迷っている。実家のパソコンはWindowsXPで、買ってからかれこれ10年くらい経つ。A4サイズのごっついやつで、とにかく全部入り!みたいのだ。中身もごてごてしていて、立ち上がりも時間がかかる。

iPadを買って以降、父はネットの調べものも、写真の保存も、メールのチェックも、囲碁・将棋も、iPadでやっている。パソコンは一切立ち上げなくなった。年賀状も、今回から郵便局のネットサービスに切り替えたので、作成も印刷も(投函も)郵便局のサイトで事足りる。

先日実家に帰ったときのこと。父がパソコンをさして「住所録だのなんだのと昔使っていたファイルが入っているので、これはきちんと保管しておきたい」という。「そんなに高くないならパソコンを買い替えてもいいね」という話になり、「じゃあ何がいいかちょっと調べてみる」と返して帰ってきた。

しかし、「何を買おうか」の前に「何に使うか」だと考え出すと、「何にも使わない」という結論に至ってしまった。じゃあ、いらないじゃないか。データの保管をしたいということなら、DropboxとかGoogle Driveで十分か、USBフラッシュメモリでも済むかと。予期せぬ事態でパソコンが必要になったときは、私ので作業すれば事足りるしなと。

で、結局、ここまで書いているうちに、買わなくていっか、と一件落着しつつある。つまり何が言いたいかというと、ソニーがVAIOを手放したのは、VAIOを見切ったんじゃなくて、パソコンを見切ったのだと思ったのだ。パソコンは家庭に必要なものじゃなくなったんだって、実家目線で合点がいった。郷愁に惑わされることなく、未来を創造していく構えじゃないかーと期待を寄せ、がんばれーと応援している。

でも、シニアな家庭はタブレットで事足りても、甥っ子のこととかを考えると、子どものある家庭にはパソコンに変わるクリエイティブ装置が欲しいなぁと思う。絵を描いたり、音楽とか映像の編集したりもそうだけど、子どもが早くからプログラミングに慣れ親しみ、気づいた頃には好きになってるデジタルものづくり装置が一家に一台普及すると、日本の未来は明るいなぁと思う。エンジニア需要は高まる一方だし、これ覚えときゃ食いっぱぐれないと思えば、おじいちゃんおばあちゃんだって孫にじゃぶじゃぶプレゼントするのではないか。20〜30年後、一億総ものづくり社会みたいなのを再生ソニーが作ってくれていたら、すごいドラマチックだ。妄想もくもく。

職種名とアイデンティティ

日本は欧米から多くのものを輸入しているけれど、新しい概念とか制度とかを持ってくるときに、表層的なところだけすくってそのまま使おうとするから無理が出るとか、意味がないとか、そんな話をよく聞く。新しいものを外から取り入れるのはいいけれど、もっと本質を理解して咀嚼して、日本の実態にあわせて適用すべきじゃないかと。

職種については、どうだろうかと考えた。職種名も、インターネット界隈なんかでは、いろいろ新しいものが輸入されているように思う。いまやグローバル社会で、特にインターネットの業界など世界共通で分け隔てなく考えたほうが自然なものも多いだろう。

ただ、社内も取引先もおおかた日本人で構成されているような職場環境なら、あるいは自分自身がこってり日本人タイプなら、日本の実態にあった職種分類やチームワーク、日本人にあった職種の捉え方について考察してみるのも悪くない、かもしれない。

職種分類は、欧米のほうが日本よりはっきりくっきりしているという話を聞く。それぞれの職種名がきちんと立っていて、アートディレクターはアートディレクターの仕事をする、デザイナーも然り、エンジニアも然り。自分の果たすべき職能を発揮し、それ以外の仕事はしない。そういうチームワークで、プロジェクトを進める。というような。

(最近聴いたわけじゃないので、もし事情が変わっていたら教えてほしい。あるいは、そもそもそんなことないという話もあれば聴きたい。どっちかっていうと、緩和傾向にあるんじゃないかと想像するけれど)

それに比べると、日本はそういうところの線引きが曖昧で、代表格に「総合職」と「一般職」での採用とかがある。私がおつきあいの深いWeb業界だと、ディレクター・デザイナー・プログラマーなどの職種分類があるけれど、実際問題ディレクターの職能を何とするか辺りは、業態、会社、プロジェクトごとにだいぶ異なるもので、1社の中でも個人差が大きくて混沌としているケースが少なくない。

期待される役割が、個人の力量やバックグラウンドによって変わるのは日本に限った話ではないはずだし、世界各国どんなチーム編成でも互いに協力し合わないといい仕事はできないわけで。

とすれば、これは程度問題かもしれないけど、日本のほうが職種の分類があいまいなチームワークで仕事を進めることが多いとするならば、それはそれとして、意識的にうまいこと活かしていくのも方法だよなと思った。

風呂敷とかばんの話を読んでのことだ。薄羽美枝編著「賢者の本」の文化科学高等研究所の山本哲士氏の講義から。

風呂敷にも述語性があります。先ほどから述語性という、日本語には主語がありませんと言いましたけれども、風呂敷一枚、布一枚、それをバッグのようにもできれば、一升瓶も包める、一本も二本も包める、平らなものも包める、立体的なものも、包める、何でも包めます。これが述語性です。
どういうことかというと、対象に自分の側が合わせていくのです。ヨーロッパではこの発想は有り得ません。対象は向こうにいって分離して、かばんのように全部機能をきちんと作っちゃうのです。だから、かばんは便利だし、要するに、何でもスポッと入れればいい。だけれど、そこに一升瓶は入らない。スイカは入らない。ところが、風呂敷はそれを全部できます。先ほどの箸もできます。全部作用できますね。これが述語性ということです。

ここまでうまいこと断定的に言われちゃうと、かえって反抗心を煽られる方もあるかもしれないが、日本人が「対象に自分の側を合わせていく」という感覚は、なんかしっくりいく感じがする。私の個人的なものだろうか。

いずれにせよ、欧米から輸入される新たな職種名に心かき乱されることなく、何年持つかわからない職種名に自分のアイデンティティをゆだねることなく、述語的に自分の役割を捉えていく、そうやって自分ができることを広げていくほうが、時代に即した変幻自在なアプローチだと思う。風呂敷が「包む」という述語でアイデンティティを捉えるように。

日本語には主語がない、とよく言われる。これ、日本語に特徴的なものかと思ったら、そうではなかった。世界の言語の8割は主語などないそうである(*1)。これを知って、こってり日本人の私は妙に納得感と安堵を覚えたのだった。そうだよな、そりゃそうだよなと。となると、よく指摘される「日本語には主語がない」というのは、英語との比較か。

東洋の思想には、「私という個が先にあるのではなく、関係の総和として私(個)がある」という考え方がある(*2)。これが、私にはとても自然に感じられる。「対象に自分の側を合わせていく」のと同様に。グローバルにやっていく上では、こればかりでは成り立たないんだろうけれど、自分たちの自然体を意識化して、それを強みとしてうまく活かしていけたらいい。

*1.薄羽美枝編著「賢者の本」(山本哲士氏の講義より)
*2.飲茶著「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」

2014-02-24

インタビューされる側

年始、インタビューされる側に立つという謎の体験をした。インタビューすることはあっても、される側に立つというのは私の人生にそうそうない。しかも、何かについてではなく、自分について話すという。これはもう先々一生ないと思うので、ここに記録として残しておく。

読んでくださる方には、くれぐれも寛容に受け止めていただきたい。3週前から1週間に1本ずつ掲載されていたのだけど、さすがに都度ここに載せる度胸はなかったのでまとめて。

1.一番の収穫は「仕事っておもしろいものなんだ」と知ったこと
2.言葉に遊ばれる感覚はこわいなあ、と思います
3.願わくば、いつも“水”のようでありたいですね

自分のしゃべっている内容については、まったく自己評価ができないもので、大丈夫なんだろうか…という不安しかないが、今のところ袋だたきとかあわず無事に暮らせている。

自分は、内からコンテンツを生み出すというより、誰かにコンテンツをいただいてそれを編集する役割が多いので、インタビューのお声がけをいただいたときは、自分に何が話せるのかと、かなり戸惑った。普通に考えたら、私がインタビューする側で、千貫さんがインタビューされる側だ。

取材くださった千貫さんは、Web制作の実務と並行して、同業の方を対象としたトレーニング講師、講演・執筆活動も手がけられている。フリーランスとしてのご経験も長いので、そうしたテーマでセミナーに登壇されているのもよくお見かけしている。つまり、多様なコンテンツを自分の内に持っている方だ。しかも、いつも潔く、等身大で、素直な言葉でお話しされるので、こちらも素直な心持ちで自然と聴き入ってしまうという、とても魅力的な語り手だ。

というので、立場が逆だよなぁというのは私も重々承知の助。しかし、せっかくお声がけくださったし、記事にならずとも千貫さんとゆっくりおしゃべりできるのは嬉しいなぁと思い、使えなかったらそのまま流してください、とお伝えしてインタビュー取材いただいた。

結局、取材当日は千貫さんの温かい導きもあって2時間ほど話し込み、他の皆さんと同じように3本構成にまとめてくださったのだが、記事化するにはいろいろご苦労があったこととお察しする。

で、この経験で大いに自覚させられたのが、自分がしゃべっているときの言葉選びはほんと適当なんだなぁということ。文章にしていただいたものを事前にいただいて読んでみると、あぁ自分の思っていることとずれてるなぁと思うところがちょいちょいあって(記事起こし段階ではなく、私が言葉を発する時点から言葉の選択がずれているというもの)、後から言葉を入れ替えさせていただいたものもある。

やっぱり瞬時に思っていることを言葉に表すっていうのは並大抵のことではないなぁと痛感し、この間話題になっていた「笑っていいとも!」の武井壮が語った「スポーツが短期間で上達するコツ」が説得力あり過ぎてスゴい スランプ対策にもを思い出した。

真横に腕を伸ばしているつもりでも、目をつむってやると、真横になっていない、ちょっと斜めっている。「自分の身体を思ったとおりに動かす」って難しいという話。身体の動きに留まらず、自分の思ったとおりにしゃべるとか、自分の思ったとおりに行動を起こすとかも、本当に難しいことなんだと思った。

ずれていることに気づくのが、これまた難しい。思っているからには、思ったとおりに動かせている、表せているものと思い込んでしまう。多少ずれているとしても、実際ほどずれているとは思わない。

自分が頭で思っていることと、実際やっていること、少しずつでも合わせていきたいもんだなぁと改めて考えさせられる機会になった。貴重な経験をさせていただいて感謝。でも一番は、これまでセミナー会場でご挨拶程度だった千貫さんとゆっくりおしゃべりできたこと。今度はお話たくさん聴きたい。

2014-02-10

母の命日の大手術

母が他界して丸三年。今日は命日だ。一年経つと一周忌、二年経つと三回忌、三年経つと言葉にとまどい、いくらかギクシャクしながら「命日」という言葉を頭に思い浮かべた。

数週間前に父に声をかけ、母の姉夫婦も誘って前日の日曜日(つまり昨日)お墓参りに行こうと話していたのだけど、金曜時点で「土曜は20年に一度の大雪」とのニュース。予定する日曜は晴天でも、父も姉夫婦も高齢だし、雪道を行くにはなかなかハードなところにお墓があるので、お墓参りは翌週延期となった。

私も帰省を取りやめて、大雪の土曜は東京にいた。天気予報は大当たり、東京もずいぶん吹雪いて20cm以上の積雪。

あけて日曜日。明け方に雪はやみ、晴天の空のもと、やっぱり一人でも行こうと思い直した。なかば衝動に身を任せて電車に乗り込んだのは、翌日の月曜日(つまり今日)が甥っ子の手術日だったからだ。

昨年末ぎりぎりになって、まだ小学生の甥っ子が大病を患って急遽長期入院する事態となった。詳細は省くが、兄は、母の助けも借りたい一心で、息子の手術日を母の命日にしたにちがいない。私は少し前にそれを聞いて、しっかりお母さんにお願いしてくるから、と励ました。なので、晴天のもと東京にとどまっているのはどうにもやりきれず、とにかく自分の気の落ちつくようにふるまおうと電車に乗りこんだ。

遅延はありつつも鈍行列車は走っており、1時間ほどかけて墓地の最寄り駅に到着した。しかし、お墓はそこからバスで数十分行ったところにある。駅直結のデパートでお花を買って、バスターミナルへ。休日とはいえ、大きなバスターミナルなのに、バスの往来がほとんどない。どこ行きのバス停も、前日の雪の影響で「調整中」の文字が光っている。予定どおり来たとして15分待ち。とりあえず待つか…とそこらをうろうろし、タクシー乗り場に足を運んでみると、こちらも長蛇の列。タクシーもまったくやって来ず、列は一向に進まない。

15分待っても結局バスは来なくて、しばらく待ちぼうけしたところに、違う路線のバスがやってきた。経由地は違うものの、終点は自分が乗りたいバスと一緒だったので、ダメもとでバスに乗り込み、運転手さんに訊いてみる。「これって○○は行かないですか?」、すると「これは行かないねぇ」の後に、「その辺りは雪が深くて、まだバスが走れる目処がたってないんですよ」とのこと。なんと…。

徒歩で行ける距離でもなく、タクシーも相変わらず。仕方ないとあきらめて、お花をもって東京に戻ってきた。なんという役立たず。いや、行ったからといって役に立つわけじゃない。これは私の気が済む済まないの話であって、行けなかったからといって何かに影響するわけじゃないのだ。そう心に刻みこんで、翌日の手術の成功を祈った。

今朝8時から手術に入り、先ほど20時に12時間に及ぶ大手術が終わった。なんとお医者さん、悪いところを全部取ってくれたと、手術成功の知らせ!! 嬉しすぎて会社の席に座ったまま、父からの電話に声をあげてしまった。本当に良かった。これからもいろいろ大変だけど、とにかく本当に良かった。

恐怖と闘った甥っ子の気持ち、不安を抱え込んで彼を励まし続けた兄と義姉の気持ちを思うと、胸がいっぱいになる。甥っ子は全身麻酔から覚めてまだぐったりした状態で、今日がお誕生日の義姉に「おめでとう」って声をかけたそうだ。彼は彼で、手術後のサプライズを企てていたらしい。泣かせる…。

甥っ子、よく頑張った。先生、本当にありがとう。そして、きっと見守ってくれてたね。お母さん、ありがとう。家に帰って、お花にふれてお礼を言った。ただいま史上最多の案件重なり具合でひいこらいってるけど、おばちゃんも頑張らねば。

2014-02-04

ろくでもないとこも

今読んでいる本は、飲茶(やむちゃ)さんの「史上最強の哲学入門」。この間まで東洋の哲人(青い本)を読んでいたんだけど、今は西洋の哲人(赤い本)に移った。どちらも面白い。

どどーんと太っ腹に平易な文章で書かれていて、最近読んだ章のルソーなんて「無職で、倒錯した性癖のある四十代のニート」呼ばわりである。

ルソーは、人民主権を説いてフランス革命に多大な影響を及ぼしたフランスの偉大な思想家として知られるが、四十近くまでは、うだつのあがらない芸術家志望だったそう。

愛人との間に五人も子供を作っては次々と捨てたり……、婦女子の前にお尻を出して現れたり……、と品行方正とはほど遠い、露出狂のろくでなしであった(なお、尻出し事件で捕まった件について、彼は「こうすれば彼女たちにお尻を叩いてもらえるかもしれないと思って……」とダメな釈明をしている)。

それが四十近くになって気まぐれに応募した論文が受賞して、一躍、時の人になったとのこと。

どうしようもないルソーであったが、たったひとつ凄まじい才能があった。それは「情緒的で感傷的な、みんなを泣かせる大衆受けする文章が書ける」という才能であった。

教育者としては明らかに失格であろう露出狂な彼の教育論を説いた本「エミール」は、現在でも教育界で必読書とされ、彼は教育学の祖と呼ばれたりもするという。

「国家とは、公共の利益を第一に考えて運営される、民衆のための機関である」という現代に通じる国家観を民衆に浸透させたルソーの功績は計り知れないほど大きいだろう。

世の中どれもこれもに完璧な人なんていなくて、聖人でも秀才でもない人間が、どこかに欠陥を抱えながら、それでも自分が役立てる社会的役割を果たして不格好に生きている。ということを、よく思う。そう思えば、人を批判的にみるばかりではなくて、私たちはお互いをどんなふうに生かし合ったらいいかと、考えやすくなるんじゃないか。

ルソーはまぁ、かなり極端な例かもしれない。けれど、例えば「政治家の浮気」がスキャンダルになったりする。正直なところ私には、浮気をするとか妻以外に好きな女性がいるのが政治家としてダメ(=政治能力が低い)というのが、どうつながるのか見えていない。それって関係あるんだろうか。辞職する必要があるのか。愛人がいなくて政治能力が低い政治家より、愛人がいても政治能力が高い政治家のほうが、国民的にはいい気がするのだけど。いや、別に愛人がいなくて政治能力が高い政治家でもいいけれども。いるいないは評価軸に含まれるのか。

もちろん、奥さんがその政治家を袋だたきにするのは自由だ。夫としてダメというのは、私にも理解できる。奥さんの友人、親戚が腹を立てるのもわかる。けれど、それは夫婦という関係性での話だ。なぜ政治家と国民という関係性でつながっている立場から、自分のプライベートを責められなければならないんだ!と言われれば、そうですね、関係ないですね、と私は思ってしまう。

当人が起こした問題に直接・間接に関わる人が、その人を許せないというのは、もちろんあって当然と思う。残忍な罪であれば、生涯許せないということもあって当然と思う。でも、その問題に直接・間接には関わらない人が、直接問題に関わる人と同等に、その人のその後の人生を、その人との関わりを、一切断じてしまったら、多くの非聖人に機会は残されなくなってしまう。問題を起こしたその場所から離れたところに、何らかの開かれた機会があるからこそ、私たちはいろいろと失敗しながらも、社会的役割を担って生きていくことができるんじゃないか。

いや、政治家って役割が特別ダメなんだよ。というなら、なんだったらいいんだろう。民間だったらいいのか。サラリーマンだったらいいんだろうか。社長だとダメなんだろうか。部長になるのはどうなのか。大きな会社だとダメなのか。その線引きは誰が決めるんだろう。どれくらいの期間もつ、どれくらいの人数に支持される価値観だろう。なんてことを考えてしまう。

その社会的役割と関係ないところ、あるいは遠い昔の失敗や失言を取り上げて、人から社会的役割の機会を取り上げていったら、誰も何もできなくなってしまう。やっぱりこの人じゃダメだ、この人もダメだ、とっかえひっかえを続けて、改まってじゃあ誰ならいいの?って考えたときに、誰もいないですね、ってことになってしまう。

それよりは、それぞれに社会的役割と人のつながりを支援して、社会的にどう活かすかというほうへ意識を向けたほうが、世の中の力は満ちていくと思う。

理想論、きれいごとかもしれない。自分で書いていて、抽象論だなぁと思う気持ちもある。でも、私たちの世界には、時として断じる父の手も必要なら、時として包み込む母の手も必要だ。どちらも、必要なんだと思う。人のろくでもないところに社会が心を広くしていないと、可能性の世界は閉じていく一方だ。バランスの問題ではあるけれども。はぁ、駄文すぎた…。

2014-02-03

目とおでこ

数年前から翼状片(よくじょうへん)という目の病気もちである。目が紫外線に弱かったり、漁師のように陽を浴び続けているとなる病気らしい。私はかなりインドアな人間なんだけど、両目ともかかって、白目にかけらのようなのが肉眼でしっかり見える。これが黒目のほうに侵入してくると視力に影響が出るので、手術で取ることになる。だけど、取っても再発率が高いので、延ばせるかぎりは取らずに様子をみる、というものらしい。

ということで、目の手術なんて、想像するだけで卒倒しそうな私は、病名を与えられてから数年寝かせてしまっていたのだけど、昨年の晩秋あたり、仕事で目を酷使したためか充血がひどい日が続き、いよいよまずいかと思って、重たい腰をあげた。会社近くの眼科クリニックで紹介状を書いてもらい、大きな病院へ。

12月に診てもらったところ、両目に翼状片、加えてひどいドライアイ。なんでも「あなた、普通の人の5分の1しか涙の量がないよ」とのこと。ドライすぎる。それによってか、目の中に傷もできているとの診断。とりあえず、すぐ手術するのも難しい(荒れている)というので、しばらく目薬をさして事態の沈静化を図ることになった。

それにしても、涙量を測る検査というのが、「目のなかに乾いた紙を入れて数分置いて湿り具合を測る」という、そのまんまじゃないですかっ!という検査法。直前に麻酔の目薬はさすものの、手に汗びっしょり、心はぐったり、紙はしっとり。

病院で使う器具とか検査ツールの類って、「もう!そのまんまじゃないですかっ」みたいなのばっかりな気がするのだけど、医師だけじゃなくて、その先にいる幼気な患者の気持ちに寄り添った製品開発したら億万長者になれるんじゃないかしら。コストあがって病院に採用されるまでが大変なのか。その辺頑張ってくれる方がいたら、ぜひ「採血」からなんとかしていただけると有りがたい…。

それはそれとして、目薬さしながらしばらく様子をみた2月の本日、病院を再訪。涙量を測る検査はなかったけど、眼圧の検査、これも怖い。か弱い目めがけて風を飛ばしてくるって、そんな横暴な…。「はい、おでこを器具から離さないでくださーい」って、危険が訪れることをわかっていて、よけない人間がどこにいるというのだ。

「は、はい」と答えながらも、何回やり直しても器具からおでこが離れる。途中で笑ってしまったが、おでこが逃げるのを私には止められないのだった。おでこに同情しながら、よしよし、おまえは悪くないよ、と胸のうちで慰める。

こういうとき、思う。私は、「私」という統合された概念の意志によって動いているのではないのだよなぁと。ある時はおでこによって、ある時は目によって、私は動かされているのだ。結果が私である。私という概念の意志が、どんなにおでこをたしなめたところで、おでこは私の言うことを聞いたりしない。よけるものはよけるのだ。私というよくわからない概念より、おでこという存在明らかなる細胞。むちゃくちゃだけど、あながちむちゃくちゃでもない。

それで、ともかく診察は「前に比べると落ちつきましたね」ということで、もう3ヶ月目薬をさしながら沈静化を図る。5月の様子をみて、右目の手術を考えましょうとのこと。がびーん、手術…。とりあえず、そのことは5月まで思い出さないことにする。目薬をさしながら、紫外線をさけながら、穏やかに3ヶ月過ごそう。

全然関係ないけど、診察中に「あなたは、あれだね、作家と同姓同名だよねぇ」「えぇ、そうなんですよ」という、よくやる会話があったんだけど、その後に先生「親戚とか、何か関係あるの?」、私「いや、まったく…」、先生「(後ろの看護師さんに向かって)彼女は山梨だっけ?」、看護師「えぇ、山梨です(断定かつ即答)」というやりとりがあった。彼女は出身地まで一般常識なのか、と感心した。

2014-02-02

読む力

「舛添要一さんの発言について」という福島みずほさんのブログ記事が、Facebookの方々でシェアされていた。ざっと見たところ、舛添さんの女性差別発言を叩いて終わるものばかりで、ちょっと驚いた。違う読み方をした人は、静かに通りすぎ、この記事の拡散を避けたということかもしれないが。

私がこれを読んで第一印象で思ったのは、「引いてる文章が古いなぁ」だった。福島さんのブログ記事は2014年1月末日、つい最近アップされたものだけど、引用されている文章は、女性差別発言のが1989年と25年前のもの。それ以外も1996年、1998年と15年以上前。福島さんが発信したいメッセージに使える素材が、古いのしか見あたらなかったんだろう。

四半世紀、人が変わるには十分な時間だし、当時とは時代背景もずいぶん変わっている。1989年は平成元年。私はまだ中学生だ。その頃の自分の周辺の風景を思い返すと、時代的にはまだ、家内がうちを守って、主人が外で働くというのが一般的な家庭観だったように思う。すでに例外はぼこぼこと出ている時期だったろうし、うちの母も何かしら仕事はしていたけれど。

その頃から25年、人も時代も激動を生きながら価値観を変えてきた。もちろん、その頃からずっと舛添さんの考え方が変わっていない可能性もあるし、生理うんぬんというのは時代とは関係ないかもしれないが。自分が生きた25年の年月をたどると、私にはそう安直に2014年現在の舛添さんの価値観を25年前と変化なしとは想定できないのだった。昔の発言を切り取って、25年後のその人を断罪するのは、「一度の失敗で評価を決めつけて、敗者復活の機会を与えない社会って良くない!」と言う世の価値観に反するのではないか。

福島さんにここで鼻息荒くもの申したいのでもない。彼女は批評家じゃない。政治家として自分が民衆に発したいメッセージがあって書いているのだろうから、そこに存分に主張が入ってくるのも、読み手としては想像に難くない。1996年の文章を引いて、「福島の人々をはじめ、原発立地県や周辺の人たちの原発反対の気持ちを全く理解しているとは思えません」とつなげるのはどうかなぁと思うけれど。ともあれ、引用した記事の年数は明記されている。

私がこの一件にふれて意識した対象は、読み手だ。民衆一般、自分たち自身のこと。人が書いた文章をどう読むかということが、今の時代にはすごく問われているように感じていたのだけど、それを改めて考えさせられる一件だった。

書き手と読み手は、対等だ。書き手がどう書くか、それを読み手がどう読むかは、どちらも本人に委ねられている。そして書き手にも読み手にも、主観がある。私の文章にだってある。どんなに主観を排除しようと努めても、私たちは自分を介して何かを発信するし、自分を介して何かを受け取る。「自分を介して」からは逃れようがない。

同じ人の同じ発言を聞いても、受け手が発信者に抱いているイメージによって受け取り方は変わるし、発言している内容に関する予備知識によっても見え方は変わるし、どう肯定的・批判的に受け取って加工するかという編集力の豊かさによっても、入ってくる刺激は大きく変容する。

女性差別発言を例にとると、明らかに時代に合わないのでわかりづらいけれど、この記事の上のほうで引いている舛添さんの発言は、それも一理あるという読み方もできるのではないか。何かの制度や主義って、そう名づけるからには何らかの特徴があるわけで、民主制や民主主義にも特徴があり、特徴があるからには強みと弱みの両面をもたざるをえない。

民主制は、悪くすれば「衆愚政治」に堕落するというのは、紀元前にアリストテレスが指摘していることだ。どの政治体制にも腐敗する可能性はあり、「君主制は独裁制になりやすく、貴族制は寡頭制になりやすく、民主制は衆愚制になりやすい」ことを指摘していたという。(飲茶「史上最強の哲学入門」

心を落ちつけてフラットに読めば、民主制にそういう側面があるのは納得するところ。むしろ、腐敗すればそうなりうるという民主制の弱点をわかっていない政治家では、実際のところかなり仕事するのが厳しいのではないかと思う。体制の強みと弱みを両面わかった上で、全体最適を設計しつつ、個々の状況に寄り添って、どう良い解を具体的に導いていくかを考えていくのが仕事だと思う。

扇情的なメッセージの言いなりになって煽動されないことが、民主主義社会における民衆の務めかもしれない。なんて、直観だけで生きているような私が何を言うかという話だけど。テーマは関係なく、多様な書き手の文章を読むことが前提になったインターネット後の世界に立って、改めて思うのだ。書き手のメッセージをどう読むかは、最終的には、書き手の責任ではなく読み手の責任である。

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