統合も調和も
もう何年目になるのか、元日は中学時代の友人と連れ立って夕方から数時間、実家近くのマクドナルドに行って話しこむのがお正月の恒例となっている。妹には、いい歳なんだからもう少し店をバージョンアップしたらどうだと突っ込まれるのだが、まぁ実家近所で元日に開いている手頃なお店もないし、なんだかんだ恒例になると、これがいいんだよ、みたいな気分にもなるものだ。3年前、母の末期がんが見つかったときは、さすがに一回休みかと思ったけれど、そのときは友だちがわが家にやって来るというので、母も交えて3人で話をした。
今年も元日は、昼から兄一家を迎えて家族みんなで過ごした後、友だちと近所のマクドナルドに行って夕方から4時間半ほどしゃべった(さすがに店内はかなり空いているので、長時間居座っても迷惑にはなっていないふう)。
彼女と親しくなったのは中学1年生。もう四半世紀のつきあいだ。中学を卒業してからは、そう頻繁に会っているわけではないし、1年に一度も会わない時期もあったけれど、ここしばらくは少なくとも1年に一度お正月には会っている。
今年もいろんな話をしたが、ひとしきり話をした後に彼女が、私の話し方に理詰めのような堅さがなくなって、一年前までと比べてずいぶん穏やかな表情をしている気がすると言った。ちょうど私もこの年末に、自分の内面が「とけてきた」感覚をもったばかりだったので、生活感も人生観も自然児のような彼女がそう言ってくれるのを、ほぉそうかーと感慨深く受け止めた。
デザイン志向が度を越すと、さまざまのことを一つの型に収めること、つじつまを合わせること、一つに統合することにこだわり過ぎてしまう。しかし、事実は小説より奇なり。実際は、多くの偶発性に支えられて私たちは人生を生きている。因果律や根拠のようなものを絶対視するようになると、対極で働く力が見えなくなってしまう、存在しないものとして処理するようになってしまう。
これは人によって考え方が異なるところだろうけれど、私はどちらにも偏向せず、いい加減、いい按配なのが好みだ。オカルト的にもなりたくない一方で、因果律だけで世界のすべてを理解しようとも思わない。
組織の中にも社会の中にもいろいろある。一人の人間の中にさえ、いろいろある。いろいろあることを前提に、一つに統合することも、一つにまとめようとせず調和を志向することも、その時々で選べる人間でありたい。
今年自分が為すべきことは、すでになんとなく見え隠れしている。その一つずつに、力を抜いて、やわらかく自然体で関わっていきたいと思う。本年もどうぞよろしくお願いします。
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