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2014-01-23

感じていること、表出するもの

ブログを書くとFacebookに自動投稿される設定を、一旦止めたのだけど(2つ前の話参照)再開した(早い…)。2つ前の話を読んで声をかけてくださった方、ありがとうございました。先週今週と集中的に、このブログに関する意見をうかがう機会があり(シンクロニシティ?)、そんなこともそうそうないので、いただいた言葉を大事にします。

自動投稿をやっぱり戻すかと思ったのは、「インターネットは情報を発信する側ではなく、受け取る側がコントロールするものだ」という話を聴いて、これは頼りがいある真理って感じする!と直感的に思ったからだ。私は真理に弱い。

だからまぁ、気楽に送り出そうと。「自由に、オープンに」、私にとってはこの手の文章も流すことがオープンさの体現ってことでいいじゃないかと。それで再開することにした。自分のことだけど、自分で決めたというよりは、おのずとそうなった。無為自然とは、なるほどな言葉だ。

あと一昨日、青山学院大学院の苅宿俊文教授のお話を伺ったとき、私が人に読んでもらえるところに文章を置くのはこういう背景もあるかなぁと思い、大変印象に残った(言葉を正確に書きとめられておらず、自分なりの解釈だけど)。

自分が「感じていること」と「言っていること」を合わせていくためには、他者の視点が必要なんです。自分が「感じていること」を他者に表出して、その人から質問や意見や感想をもらって、そうした相互の関わりの中で、自分が「感じていること」と「言っていること」を合わせていく。そうやって知的生産活動はなされていくんです。

これを聴いて、私が人の目の触れるところに個人的文章を置いているのは、共感を求めるというより、自分の「感じていること」と「言っていること」を合わせていきたいって感覚のほうがフィットするなぁと思った。そればかりでもないと思うけど。

自分が「感じていること」って、言葉やなんかで外に表出してみても、そのままそっくり言い表せた感覚は覚えない。とても難しい。でも言い表してみることで、「感じていること」と「言っていること」がいくらか合わさっていって、自分が本当に感じていることは何なのかを探り当てていくような、真理にいくらかでも近づいていくような感覚は得ることができる。

たとえ読んだ人のリアクションがなく、あるいは誰も読まなかったとしても、人が読む前提で文章を起こしていくだけで、自分しか読まない前提で書く文章よりずっと、「感じていること」と「言っていること」が合わさる作用は働くんだと思う。そういう状況で文章を書くのが、ひとつ私にとっては大事なことなのかもしれない。そこからさらに、誰かが興味を示して読んでくれれば単純に嬉しいし、何かリアクションをもらうことで「感じていること」と「言っていること」が合わさる作用もまた深まるんだろう。

といって、人が読む前提で書かずに、そのまま放置してあるメモ書きも散在しているんだけど…。とりあえずこれでブログの話は終了。このぐだぐだ3部作におつきあいくださった方に感謝。

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