教育者としてのお釈迦さま
「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」によれば、お釈迦さまは「自分の言葉を文章に残すことを好まなかった」。そこで釈迦の死後、弟子たちは記憶を持ち寄って定期的に集まり、釈迦が生前言っていたことを経典としてまとめようとしたが、その経典作りは困難を極めたという。
というのも、弟子たちが釈迦から聞いた話がみなそれぞれで違っていたからだ。もともと釈迦自身は「一貫性」というものにそれほどこだわってはいなかった。なぜなら、彼にとって最大の目的は、目の前にいる人を「悟りの境地」に導くことであったからだ。だから彼は、個人ひとりひとりに合うように、毎回、手を変え品を変え、さまざまなやり方で教えを説いていた。
彼は小難しい理論や教義を上から押し付けるタイプのいわゆる教祖ではなかった。すなわち、「これこれこうなのだ」と理屈を教え込み説得するのではなく、「ちょっとこんなことをやってみなさい」と何かを実践させ、その実践を通して聞き手に「ああ、そうか!」といった「体験的理解(悟り)」を起こさせようとする。
というわけで、釈迦の発言は「目の前にいる人」によって異なり、あわせてみると矛盾しているものもあった。ゆえに、経典作りに際しては、釈迦の生前語った言葉を「言葉どおりに受け取って良いことなのか?」(普遍性が高い発言なのか)、「特定の個人宛に別の意図があって言っただけで、真に受けなくても良いことなのか?」(個別性が高い発言なのか)を解釈する必要があった。
この辺は、誰に向けて書いた文章なのか定かでないネット上の文章を読む私たちの日常においても、解釈の難しさをよく思う。「普遍性と個別性の線引き」をどこでどう解釈するかは、読み手にゆだねられている文章が多い。
閑話休題。釈迦にはたくさんの弟子があった。そして「言葉で伝達することができず、身をもって体験することでしか知りえないもの」を教えるのが釈迦の役割だった。
だからこそ釈迦は絶対に核心をつかない。核心の周辺をなでるようなたとえ話だけに説明をとどめ、弟子たちが自力で核心にたどり着けるよう、細心の注意をはらって語るのである。
ビジネスやサービスの領域で教育を扱うとき、ここの学習プロセスに対する注意はとても大事だと思う。ビジネスやサービスの領域では「受講者の満足度」の存在感が際立つ。効率化の時代、明快にわかりやすく短時間で「わかった」気になれるところを目指して、成果が出れば一定のやった感は得られる。
けれど、世の中には「言葉で伝達することができず、身をもって体験することでしか知りえないもの」もたくさんある。実務者のさまざまなスキル習得は、まさにこれだ。「このスキルを身につけるプログラムです」という打ち出しをするならば、そういうプログラムを設計して提供する必要がある。
もちろん、満足度の低いプログラムでは学習効果も望めないけど、そこどまりでもいけない。「学習者は満足、わかった気になって帰っていったが実際はわかっていない」という学習者の認識と実際のズレを引き起こすのでは、その後の継続学習の観点で害を与えているとも考えられる。
言葉で書くのは簡単だけど、実際このプログラム作りは本当に骨が折れる、論理的思考力と創造力を求められる仕事だ。これが満点なんていうのはない世界だけど、ここのところは大事にして人材育成の仕事に従事したい。
この本には、お釈迦さまが実際「ちょっとこんなことをやってみなさい」と導いたエピソードも紹介されているのだけど、その導きの見事なこと。教育コンテンツの創造力の豊かさにも、たいへん刺激を受けた。
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