本屋の散歩道
気になる本をいくつかメモって、新宿の紀伊国屋書店に行く。即買いたい本はAmazonで買ってしまうけれど、一度見合いしたい本などは本屋がいい。で、メモを片手に店に入ると、たいていリストアップした本をほとんど買わずに、別の本を買いこんで建物を出てくる。ちなみに新宿の紀伊国屋書店とは、8階建てのでっかい本屋ビルだ。いつもくたくたの酸欠状態で店を後にする。
本屋とはそういう場所なんだと納得して良しとしているが、リストアップしても買わずじまいなら、いっそメモを持たずに訪れてみたらと想像してみた。しかし、そうするとどうも得られるものが変わってしまいそうである。
毎度あのビルを全フロアひやかし歩く気力体力はないため、メモ無しだったらおそらく、1階の一押し棚と文庫本フロアを散歩するくらいで終わってしまうだろう。メモった本の多様さにもよるけれども、自分がリストアップした本に向けてフロアを行き来する散歩道、そこにこそ意味があるのだ。たぶん。
どのフロアを歩いても大量に本があるので、たいていはお薦めらしき平積みに専念してみていくのだけど、そうすると本と「目が合う」感覚を覚えることがある。これはAmazonにはない体験で、本屋で感覚する独特のものだなぁと思う。
実際はまぁ、いろんな人の力が働いているわけだけど、そうだとわかっていても極めて偶発的な出会いと感じられる余地が多分にある、それが本屋の魅力だ。これは私の関心外という本も視界に含めつつ、とにかくものすごい物量に圧倒されながら本に触れているので、私がその本に意識を向けた、視線をそこで止めたということが、ほとんど奇跡のように感じられる。ここのところに影響を与えている場の力は大きい。
この休暇中もそんな感じでリストアップしていなかった本を買ってきたのだけど、そのうちの一つが飲茶(やむちゃ)さんの「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」(マガジン・マガジン)。表紙から、これは目が合うっていうより…、静謐な哲学書が並ぶ中にこんなの置かれちゃ気にしないではいられないって感じだけど。
いっさいの言葉は、「世界にあるモノ(実体)」を指し示しているのではなく、ホントウは何らかの価値基準に従って世界に引いた、区別のための境界線を指し示しているのである。だから、言葉とは「区別(境界線)そのもの」だと言ってもいい。
なんて、今選ぶべくして手に取った感もある。本屋での本との出会いは、偶発性の先に必然性をも匂わせてくれる曖昧さが心地よい。
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