「友人」という言葉
「友人」という言葉ほど、便宜的に使っている言葉もないかもしれない。自分の使う言葉は、できるだけ丁寧に選ぼうと日々努めているけれど、こればかりはかなり割り切って(ある種)適当に使っている気がする。
だって、そうするより仕方ないじゃないか。だいたい「友人」っていうのは、赤の他人から知人を通過して一定の親しみを持ち寄るようになり、なんらか他の人と異なるユニークな関係を築き始めたときになるものだ。ユニークな関係になったからこそ友人だというのに、それをひとくくりに「友人」という言葉でまとめようとするのもおかしな話だ(むちゃくちゃ)。
さらに友人を横に並べて、あの人とこの人を比較・分類・階層化して、より適切な関係性に細分化してラベルをつけようとするのも野暮である。そんなことをしても、その関係のさらなる本質的理解に迫れるわけじゃない。だって結局、その関係の帰するところはユニークな関係なんだもの。せっせと分類してラベルをつけてまわるくらいだったら、一つひとつの関係の尊さを言葉に表してまわったほうがよっぽど意味深いじゃあないの。というのが言い分である。
それに長く生きれば生きるほど、人間関係の情報は増える一方。「もともとは〜で、数年前までは〜だったけど、今は〜で」と、関係性の説明は正確を期するほど年々ごちゃごちゃしてくる。ゆえに、説明の必要に迫られたときは便宜的に「友人」と言葉を添えておけばいいじゃないか、となる。あるいは住所録でもなんでも必要に応じて、便宜的に「友人」をさらに細分化すればいい。五十音順、地域別、出会った時期別など。
本質的な関係を言い表すことは、時間を与えられたところで難しい。一人ひとりとの関係の尊さは常に自分の表現力を上回ったところにあって言い尽くすことができないし、同じ相手でもその時々で関係性はさらりと変化する。その関係性の全容を、私は正確に把握できていない。しかも、人の思いは日々水面のように揺れていて、今と数分後でも異なるかもしれない。
そんなあやふやな人間関係を前に、私は言葉の分類を放棄する。仕事でお世話になっている人も、目上の人も、まるっとひっくるめて私の中ではざっくり「友人」とくくってしまっている。もちろん失礼なので本人を前にそんなこと言わないが…。
ともあれ、この便宜的友人関係の本質は、お互いの間にあるとらえどころのないユニークな関係だ。それをほぼ正確に感覚できていると感じられる唯一の瞬間が、直接その友人と会い、目を合わせ、耳で声を聴き、口で言葉を届けている時間だ。このとき私が感覚しているものが、私とその人のほぼ正確な関係の正体ではないかと思ったりする。それは言葉に表せないし、自分だけの感覚に過ぎないわけだけど。それでも私には、「友人」という概念のもとにたどれる、これが最も確かな感触だ。
昭和一桁の時代に刊行された国語辞典「大言海」に、「概念」という言葉の語釈がこうある。
英語、Conceptノ訳語。
感覚ニヨリテ得ル、諸種ノ智識。
其相違ノ点ヲ省キ、
類似ノ点ノミヲ統合シテ、
普通智識ヲ作ル意識ノ作用
長田弘さんは「夏の午後、ことばについて」という詩の中で、この「概念」の字義が好きだと書いている。
「感覚ニヨリテ得ル智識」を働かすこと。
そう、社会であるとか、個人であるとか、
希望であるとか、個人であるとか、
そこにある指さすことのできないもの、
事物ではないもの、
かたちをもたないもの、
ただ概念でしかないものを、
確かな感触をのこすことばとして、
じぶんの実感できるものに変えてゆく術を
どうやって体得してゆくかー
すべてはそこから、ことばからはじまる。
概念とは「感覚ニヨリテ得ル智識」。相当もやもやした文章だけど(私のが)、もやもや考えたこと。
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