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2013-12-29

型をくずす

ちょっと前、クレジットカードのことで質問があって、カード会社のサポートセンターに電話をかけた。(おそらく私より年下だが)お姉さんが丁寧に対応してくれ、一件落着したので電話を終える段に。お姉さん「ありがとうございました」、私「ありがとうございました。助かりました」と言ったら、電話越しに一瞬の間。お姉さん、「ぁ、ありがとうございました!」と改めて快い返事をくれた。

日は変わって仕事納めの日。(飲んでてだけど)ぎりぎり終電に間に合わずタクシー帰り。運転手さんが「僕はこう思うんだ」とよく話す方で、それをふむふむと聴く。家の前に到着して精算してドアがあいたところで、おじさま「ありがとうございました」、私「ありがとうございました。よいお年を」と言ったら、車中に一瞬の間。おじさま、振り返ってニッと笑うと、目を見開いて「よいお年を!」と返してくれた。

2つの「一瞬の間」が重なってみえた。型をくずす、ということ。例えばお礼を言うとき、「ありがとう」「感謝します」といった文例集からはみ出して、ひとつ気持ちを添えること。「助かりました」「良いお年を」、どちらもまったく凝った台詞じゃないけれど、お茶におかきを添えるように、相手への気持ちをひとつ添えて出す。そうしたことが、会話に命を吹き込むような、大事なことに思えた。

文例集をたずさえて知識偏重に陥ると、あれもこれも手元の知識でやり過ごす繰り返しにはまってしまう。専門的にやっている分野なんかは、自分の知識の取り扱いにも注意深くあたれるかもしれない。問題はむしろ、気を抜いた日々の暮らしの中に現れてくるのではないか。気を抜けてこその日々の暮らしだし、ある程度の知識活用の自動化は必要なことだろうと思う。けれど、無自覚に日々の暮らしをそれに丸のみされたくもない。

われわれは太陽について、雨について、あまりにも多くの知識を得たために、太陽そのもの、雨そのものを体験することができなくなった。
河合隼雄「昔話の深層」(講談社プラスアルファ文庫)

外から取り入れた知識だけに頼り切ってしまうと、自分の中にわいた感情、自分の感覚から得られる情報を無視したり軽視したり。そうしているうち、さらに自分の感情・感覚をとらえる力は弱体化していって、頼ろうにも頼れるものがなくなってしまうかもしれない。そんな危うさを覚える。

知識を軽視するわけじゃない。外から取り入れる知識も、内からわき起こる感情も、外と内の間を探り当てる感覚も、大事にしたい。大事にして、届けたい。どれをも取り入れて、うまいこと配合して活かせるのが、人間のおいしいところだと思う。

2013-12-28

安定した足場の上で

今年は昨日で仕事納め。11〜12月にかけて来年度のご相談などもいろいろいただけて、あぁこれで来年もしばらくは役割を果たすことに尽力して生きていけそうだ…とありがたい気持ちで年の暮れを迎える。

今年を振り返るに、人と話すのは1対1でしっぽり話しこむことが多かったし(これは毎年変わらないか)、仕事も比較的大きな案件に長期どっぷり関わることが多かった印象。って、どこからが今年の始まりかよくわからないで書いているけど、とにかく一つひとつじっくり取り組めたのは殊に味わい深く有意義だった。

自分は同じ会社の同じ部署の中に変わらず身を置いていながら、時代とともに、お客さんの広がりとともに、またお客さんの新たな挑戦とともに、自分の案件の巡り合わせも広がりをみせていく。そういう影響の受け方は、なんだかとても自分の性に合っていて好ましい。ビバ受託。今年は、OFF-JT(研修)に留まらずOJTのプログラムまで含めた長期の人材育成を手がけたり、モバイルラーニングのコンテンツ開発の案件なども出てきた。

定位置に腰を落ちつけて足場が安定した環境で、時代とともに変化する外部からの要望に一つひとつ応えていくことが、微力ながら人のサポートとなり、結果的に自分自身を鍛えることにもつながっていくという構造。これが私にとっては最も働きやすいキャリア形成のあり方で、そういう環境に身を置かせてくれる会社には、年々感謝の念が深まるばかりだ。

人とのつながりも今年は、一人ひとり、私とその人の間にしか解釈できないユニークな関係が深まっていくのを大事に味わいながら過ごした。人間関係って、他の人に見せびらかすものでもないし、他から見てわかるものでもない。統一化された素晴らしい人間関係の形があって、それ目指して育んでいくものでもない。一人ひとりがユニークな存在である以上、私と相手の関係もユニークなものになるのは必然のこと。私はそんなふうに人間関係をとらえている。

だから、それぞれに当事者である私とその人が、どんなふうにつながっていたいかを形づくり、そんなふうに関係を深めていることを体感できれば、それこそが幸せなことだ。それは言葉に表しようのない感覚的なものだったりするけれど、私はその感覚を大事にしたい。来年も大事に、大事に育みたいと思う。

なんて年の瀬らしくものを考えていたら、年末ぎりぎりになって身内の臨時ニュースが入ってきて、ちょっとバタバタしている。これについては、いずれここに何か書く日が来るかもしれないけれど、今は気持ちを立て直して自分ができるサポートを強い心でやるしかない、という気持ちに一晩寝て仕上げた。

私はサポーターという役割を生きて、全うしたい。そのためには、やっぱり安定した足場が大事だ。そして安定した足場の最たるは、場にしても関係にしても身体にしても、健康であることだなと感じ入る年の瀬である。

2013-12-19

社交界の忘年会

人見知りに引っ込み思案を足して2で割ったような私だが、今年の年末は4つの忘年会らしき懇親会に参加した。褒めてつかわしたい。普段「人と会う」というと、私は大勢より一対一で会うほうが圧倒的に多い。一対一で会うと、私が不毛な話をしても、相手は自分で決めて会っているんだから自業自得ってことで許してくれるだろうという安心感があって心置きなく話せるのが良い…。

大勢で集まる場というのは、いつになっても立ち回りに慣れない。ここまで来ると、たぶん一生難しいなぁと思いながらいくんだろうと腹をくくっているが、ここ最近の4つもどぎまぎしながら参加した。が、楽しく有意義な時間を過ごすことができて、主催してくださった方、交流くださった皆さまには心から感謝している。

4つのうち、3つはWeb系、1つは人材系の業界の集まりだったが、どちらの業界にせよ、こうした場に参加したとき私の頭に浮かぶイメージは、社交界である。業界のど真ん中で仕事するプレイヤーが集まって華やかな舞踏会を楽しんでいるのを、私は舞台の下から普段着で見上げている感じがする。

Web業界だと、仕事的にまさしく私はプレイヤーでなくサポーターなので、立場上もその通りなのだが、本職たる人材業界でも同じ心持ちになったというのは、業界問わず小者というのか肝っ玉小さいというのか。

しかしWeb業界に関していえば、この立ち位置から仕事人の皆さんを見ているのは、けっこう好きなことだったりする(舞台下より舞台袖のほうが好きなのだが)。その場に集う人たちが専門的知識や経験、日々の学習に裏打ちされた知見と熱い思いをもって議論しあったり、活発に情報・意見交換するのを近くで見ていると、内心かなり気持ちが高揚する(もちろん勉強にもなる)。

私は話を聴くばかりだけど、時折質問させてもらったり、慣れた間柄だとたくさん質問してしまったり。プレイヤー同士の話の腰を折ってもいけないので、このさじ加減がなかなか難しいのだが。しかもお酒が入っちゃったりして…。

初対面の方とお話しさせてもらっているときなどは、あんまり長く自分との会話でこの人の時間を拘束してはいけないというチクタク音量が脳内で徐々に増していき、この舵取りが難しい。あぁ、そろそろ解放されたがってるぞ、という相手の反応にはまずまず敏感なので、そこから極力長引かせず自然な形で失礼するように努めるのだけど、大人のコミュニケーションってつくづく難しいなぁと思う。

そうやって一人に戻ると、その場で初めて会ったふうのプレイヤー同士が共通テーマをもって熱く語らっている様子をうらやましく思うこともある。けれど帰するところ私はやっぱりこの人たちのサポーターであって、私は私のできること、やるべきことを、自分の立ち位置から、自分の身の丈にあった形でやっていけたらいい、そんなところに落ちつく。

ともあれ、自分の仕事に矜持をもって楽しく働く人たちは素敵だ。そして、その人たちのそばで仕事ができるのは幸せだ。ということで来年もどうぞよろしくお願いします。というには少し早いか…。

2013-12-17

研修の効果測定

一つ前に書いたgihyo.jp取材記事の後編が公開されました。研修の効果をどう測るのかとか、クリエイティブ職の能力を誰が評価するのかとか、その辺に問題意識をおもちの方に、ひとつでも拾ってもらえるものがあれば幸いです。

研修の効果をどう測る?メンバーの能力を誰が評価する?
~株式会社アイ・エム・ジェイ川畑隆幸氏が赤裸々に語る!IMJ人材育成への挑戦

研修の成果をどう評価するかは、多くの業界で難しい問題とされているテーマだけど、Web業界もご多分に洩れず。

ざっくり評価レベルを分けるなら、カークパトリックによる学習成果の4レベルというのがわかりやすいけど、多くの場合、効果測定はレベル1どまり。レベル2以上は、その効果測定にかける費用対効果ってどれだけあるのよ…ということも多く、なされないことが多いのではないかと。以下、個人的な理解で超ざっくり。

レベル1-Reaction(学習者の反応)
研修直後に受講者アンケートをとって、学習者の自己申告ベースで満足度や理解度なんかを調べる

レベル2-Learning(学習者の成績)
研修直後に筆記テストやパフォーマンステストを行って、学習目標とした知識・スキル・態度をどれくらい習得しているかを調べる

レベル3-behavior(学習の転移)
研修から3ヶ月とか半年とか期間をおいて、本人・上司・部下にインタビューするなどして実務での活用具合や成果を調べる

レベル4-result(組織の結果)
研修から一定期間をおいて、売上や利益への貢献を定量的に調べたり、ステークホルダーへのアンケート調査とかで定性的情報を集めたりして、研修実施がどれだけの経営的インパクトをもたらしたかを調べる

みたいな。しかしレベル3以上は、現場ですこぶる発揮されていたとしても、それが本当に研修のおかげかわからなかったり、学習したことを現場で発揮する機会がほとんどなくて身についているか測りようがなかったり、なかなか効果測定が難しい。

さまざまな変数でもみくちゃになった現場で、実際どれくらい意味があったのか調べていくとなると、やっぱりインタビュー調査を採用することが多いよう。IMJが事後インタビューで定性情報を集めているのは丁寧な仕事だなぁと感服。

あと効果測定で注意したいのは、やった研修のゴール設定に対応した効果測定をすることかなと。研修にかぎらず、何かの施策を打ったときって、結果への期待が過剰に膨らみやすいもの。でも、例えばその研修が、ごく短時間で「あるテーマの概念や手法を知ること」「その概念や手法を自分の仕事に活用する有効性に気づくこと」までをゴールにしたものであれば、事後調査して「実務で役立てていない→研修をやっても意味がなかった」と結論づけてしまうのは早計。そこまで講座設計に組み込んでいなかったのであれば、それは研修の効果測定として不釣り合い。

もし、その研修によって実際的なスキル獲得をもっと直接的に図りたいのであれば、その限られた研修時間内でスキル獲得が見込める層(一定の予備知識や経験・スキルをすでに習得済み)に絞り込んで受講者を集め、相応の時間を割き、「できる」ようになるための講座設計を作り込む必要がある。

また、研修当日に留まらず、職場に戻った後のフォロー体制によっても結果は左右されるので、この辺もどうするかが大きな問題。というのは、IMJの取材記事中の「批判的な声がまったくないわけでもなく〜もっとプロジェクトにアサインする仕組みを考えた方がいい」に通じるところかなと。

どこまで会社として学習を支援するかは、それぞれの会社の考え方や事情によってさまざまなので、私としては、それぞれの状況にフィットしつつ、きちんと成果の上がるサポートを志していきたいなと思う次第。

2013-12-14

組織の視点、個人の視点

久しぶりにgihyo.jpに取材記事を書きました。デジタルマーケティング業界の大手IMJが、今年度から人材育成に本腰を入れ出したということで、その取材記事をまとめました。クリエイティブ職育成の組織的な取り組みにご興味ある方に、何かしら考えるエッセンスが拾ってもらえたら幸いです。

若手社員の単能工化を食い止める
~株式会社アイ・エム・ジェイ川畑隆幸氏が赤裸々に語る!IMJ人材育成への挑戦

それにしても、不定期連載とはなんと甘美な響き。止め!と言われるまで、とりあえず不定期連載のようです。「連載」に「不定期」をのっけるなんて人間わざとしか思えない。くれぐれも、いつぶりに書いたかなんて野暮な振り返りはなさらず、一つのお話としてご賞味ください。

さて、これを読んで、もしかすると「なんだ、結局は外からプログラム買ってまわしてるだけじゃないか」という感想をもたれた方がいるかもしれません。そんな人がいなかったら、おまえ突然何を言い出すんだ…とどこかから何か言われそうですが…。わっはっは。笑ってごまかす。

でも、この点について考えたことがあるので、そんな人がいたということにして編集後記的に触れますと。どこから始めても最初から完璧な体制を導入できるわけじゃないから、これは「どこから仕組みを作っていくか」のアプローチの違いなんだろうな、と私は思いました。

オリジナルで自社最適化したプログラムを一つずつ作りこんで増やしていくアプローチAもあれば、外部から既存のプログラムを買い、それを自社向けにカスタマイズしつつ多数のプログラムをまずは展開してみるアプローチBもある。IMJは後者をとったのだと解釈しました。

アプローチAは、自社の現状課題に即して社員の戦力化を果たし、具体的実績を出すまでの期間は短くできるかもしれない。一方で、受講者枠はそう広げられないので、経営的にここを育てなきゃという層を絞り込んで、人選されたメンバーだけにまずは研修を提供していくことになる。

アプローチBは、一斉に多くのプログラムを提供できるから、多様なスキル上の課題に対応して、多くの社員に知識獲得や気づきを提供できる。けれども、知識の底上げ的なところからプログラムを充実させていくと、(研修単体で)スキル向上までは望めず、現場で目覚ましい研修の投資対効果が上がるのは長期的な話になる。

で、どっちを取るか考えたとき、多くの社員を擁するIMJが年間数千万の費用をかけて、現状に即して選ぶ道としては、アプローチBだったんだろうなぁと思ったわけです。今のIMJにとっては、全体感をもった現状の実態把握をする重要度が非常に高かった。実際のところ社員はどれくらいの能力をもっているのか、どういった課題認識をもっているのか、会社としてどんな学習支援をすることが有益なのか、多くの社員に直接接触して実態を把握していくことを必要としたIMJの今において、アプローチAよりはBだったんだろうと思いました。これは私の勝手な解釈ですが…、一人で納得。

私の仕事は、アプローチAのオーダーメイド研修のご相談に対応することが多く、個人的にもそれを好ましく思っているので、自然とアプローチA的じゃないんだなぁという比較が、話を聴いていて脳内に生成され、こうした「おまえが言うな」的な批判的見方もわいて出てきたわけですが、組織の人材育成の仕組みづくりの視点って、個人のスキルアップの視点とはまた別に捉えないといけないところがあります。かといって、個人のスキルアップの視点も大事。視点を自在に移動させながら、個人と組織がともにおいしい仕組みづくりとフォロー体制づくりに長い目と大局観をもって貢献したいと改めて思った次第。

いずれにしても、全部の問題を一瞬にして完璧に解決する万能策なんて人間わざではないわけで、どういうアプローチをとっても良い悪いあるのを前提に、問題にどこから着手するか、出てきた問題にどう対処していくか、前向きに捉えて、みんなで解決を図りたいものでありますな。

2013-12-12

「友人」という言葉

「友人」という言葉ほど、便宜的に使っている言葉もないかもしれない。自分の使う言葉は、できるだけ丁寧に選ぼうと日々努めているけれど、こればかりはかなり割り切って(ある種)適当に使っている気がする。

だって、そうするより仕方ないじゃないか。だいたい「友人」っていうのは、赤の他人から知人を通過して一定の親しみを持ち寄るようになり、なんらか他の人と異なるユニークな関係を築き始めたときになるものだ。ユニークな関係になったからこそ友人だというのに、それをひとくくりに「友人」という言葉でまとめようとするのもおかしな話だ(むちゃくちゃ)。

さらに友人を横に並べて、あの人とこの人を比較・分類・階層化して、より適切な関係性に細分化してラベルをつけようとするのも野暮である。そんなことをしても、その関係のさらなる本質的理解に迫れるわけじゃない。だって結局、その関係の帰するところはユニークな関係なんだもの。せっせと分類してラベルをつけてまわるくらいだったら、一つひとつの関係の尊さを言葉に表してまわったほうがよっぽど意味深いじゃあないの。というのが言い分である。

それに長く生きれば生きるほど、人間関係の情報は増える一方。「もともとは〜で、数年前までは〜だったけど、今は〜で」と、関係性の説明は正確を期するほど年々ごちゃごちゃしてくる。ゆえに、説明の必要に迫られたときは便宜的に「友人」と言葉を添えておけばいいじゃないか、となる。あるいは住所録でもなんでも必要に応じて、便宜的に「友人」をさらに細分化すればいい。五十音順、地域別、出会った時期別など。

本質的な関係を言い表すことは、時間を与えられたところで難しい。一人ひとりとの関係の尊さは常に自分の表現力を上回ったところにあって言い尽くすことができないし、同じ相手でもその時々で関係性はさらりと変化する。その関係性の全容を、私は正確に把握できていない。しかも、人の思いは日々水面のように揺れていて、今と数分後でも異なるかもしれない。

そんなあやふやな人間関係を前に、私は言葉の分類を放棄する。仕事でお世話になっている人も、目上の人も、まるっとひっくるめて私の中ではざっくり「友人」とくくってしまっている。もちろん失礼なので本人を前にそんなこと言わないが…。

ともあれ、この便宜的友人関係の本質は、お互いの間にあるとらえどころのないユニークな関係だ。それをほぼ正確に感覚できていると感じられる唯一の瞬間が、直接その友人と会い、目を合わせ、耳で声を聴き、口で言葉を届けている時間だ。このとき私が感覚しているものが、私とその人のほぼ正確な関係の正体ではないかと思ったりする。それは言葉に表せないし、自分だけの感覚に過ぎないわけだけど。それでも私には、「友人」という概念のもとにたどれる、これが最も確かな感触だ。

昭和一桁の時代に刊行された国語辞典「大言海」に、「概念」という言葉の語釈がこうある。

英語、Conceptノ訳語。
感覚ニヨリテ得ル、諸種ノ智識。
其相違ノ点ヲ省キ、
類似ノ点ノミヲ統合シテ、
普通智識ヲ作ル意識ノ作用

長田弘さんは「夏の午後、ことばについて」という詩の中で、この「概念」の字義が好きだと書いている。

「感覚ニヨリテ得ル智識」を働かすこと。
そう、社会であるとか、個人であるとか、
希望であるとか、個人であるとか、
そこにある指さすことのできないもの、
事物ではないもの、
かたちをもたないもの、
ただ概念でしかないものを、
確かな感触をのこすことばとして、
じぶんの実感できるものに変えてゆく術を
どうやって体得してゆくかー
すべてはそこから、ことばからはじまる。

概念とは「感覚ニヨリテ得ル智識」。相当もやもやした文章だけど(私のが)、もやもや考えたこと。

2013-12-10

対象者と同業者のコミュニティ

私は、自分が生業とする人材開発系のセミナーやコミュニティ活動にほとんど参加経験がない。時折関心があるものに出かけたりはしてきたけど、相当消極的なもので、能力開発系、キャリアカウンセラー系は知り合いも少ない。

それに比べると、Web系のセミナーやコミュニティ活動にはよく参加してきた(あくまで自分比)。自分が能力開発・キャリア開発のサポートをする対象、つまり「人事の人」ではなく「Webの人」と関わってきた。意識的に選んできたというわけでもなく、気づいたらそうなっていたという感じなのだけど、その人たちの集うところに足を運び、話を聴いたり、運がよければ一緒に語らえることを大事に思った。

個人的に、Web系で出会う人たちには価値観や思想のようなものにシンパシーを感じることが多く、それも大きかったと思うけれど、それはまた別の話。

その人たちが今学ぶべきテーマや潮流、知識基盤として押さえておかなければならない概念を、専門的にはわからずとも大枠で理解しておくこと。その人たちが日々何をどんなふうに感じながら過ごしているのか、何を好ましく思い、何を大事にしたくて、何に嫌悪し、何に憤りを感じるのか。その人柄や指向を深く理解しておくこと。仕事あるいはキャリア上にどんな悩みや問題意識、課題認識をもっているのか。こうしたことに普段から触れていることが、サポートする人間には何より大事に思われた。

実際クライアントさんからご相談いただいたときに、その学習テーマにおいて何がハードルになるかを知っておくことはカリキュラム設計上重要であるし、それには日頃の洞察がものを言う。また、その案件の受講者に適した講師を引き合わせられるように、登壇者がたエキスパートと講師人脈を形成しておくことも大切だ。人見知りで、ここはなかなか、まだまだで反省なのだけど、そのときどき受講者にぴったりの講師を、ぴったりの出会い方・関わりあい方で引き合わせられたときは、舞台袖で本当に幸せな気分を味わう。

演習課題を作り込んだりするときも、普段から蓄積している背景知識がものを言う。学習効果を高めるためには、学習者にとって関連性と真正性の高い、彼らが没入できる課題を作り込む必要がある。学習者が自分のなかにある経験や関心事と自然に関連づけられるような演習課題を提示すること、学習者の仕事現場で「あるある!」と思える本物感が備わった演習課題を提示すること。

そのためには、よくよく彼らの生態を理解して丁寧に課題を作り込む必要がある。それは本当に創造的な仕事で、私も立派にできていると胸はって言える身の上じゃないけれど、とにかくそうしたところの重要性を認識して、丁寧に学習の場を設計し、道具立てを整えていくのが、ニッチな領域限定で人材育成に携わる自分のなすべき仕事だと思っている。

これと真逆の、全業種・全業態対応の汎用的研修に受講者として参加したことがあるが、あのとき体験した「しらけ感」を、自分の仕事で学習者に感じさせることはしたくない。それはつまり、私が横展開ビジネスにまったく貢献しない指向を表しているのだけれども…、こういう自分を生かしてくれる会社に感謝しながら、一つひとつクライアントさんにとって良い仕事を手づくりで納めていって、それが別の形で会社への貢献になったら一番だ。

という一方で、交流を「Webの人」だけに固執しているのは閉じた考え方ではないかと最近思い始めていた。もっとオープンに、人材開発系やキャリアカウンセラーの先輩がたから学び、また学びあえる自分に成長していくことで、私が「Webの人」に提供できるサポートも、広がり深まっていくのではないか。そんな折、私が最近で唯一参加経験をもつ人材開発系のコミュニティに足を運ぶ機会があり、思いを強くした。軸足を変える気はなく、こちらを大きく広げる気もないのだけど、この直感は大事にしたい。「深い直感をもって、日々を丁寧に生きること。」というハイネの言葉を知り、感じ入った木枯らしの頃。

2013-12-05

現場以外で学ぶ意義

一人前の仕事人になる上で、現場での実践経験を重ねる必要があることに疑いの余地はない。が、現場以外でいくら勉強したって何にもならんというのは、それはそれで極端にすぎると私は考える。ポリシーとしてそういう生き方を選択するのはもちろん自由だが、おそらくそういう人こそ実は現場以外のあらゆるところを学習の場として物事を吸収している気がする。

もちろん、OFF-JTが万能という話じゃない。OJT(現場での学習)7〜9割、OFF-JT(現場外での学習)1〜3割くらいで組み合わせられるなら、それが一番能率的じゃないかって話だ。何にしても一つの手段を絶対視するのは健全でないことが多い。

ちなみに、OFF-JTというのは講義形式に限ったものではない。ケーススタディやロールプレイング、ディスカッションや座談会、シミュレーションゲームなども含む現場外でのあらゆる学習形態をここでは想定している。民間企業にかぎらず、米軍の軍人教育などでも莫大なコストをかけてこうしたOFF-JTを行っている。

ということで、OJTの弱点と対比しつつ、OFF-JTの意義を整理してみる。これも〈新装版〉「経験知」を伝える技術(ドロシー・レナード+ウォルター・スワップ著)を読みつつ、自分の見解を照らし合わせつつの個人的メモ。分けている割に、そんなにまとまっていないかも…。

●OJTは学習機会が行き当たりばったり
OJTは、何をいつ学習するかが偶然に委ねられやすい。そのときの現場の状況に依存し、特定テーマで難易度を段階的に引き上げていくといった計画的学習が難しい。必須の知識・スキルを習得していなくても、案件によってはスムーズに納品できてしまい、不足に気づかないまま生きながらえることも。
Off-JTは、特定の知識・スキルの欠落に焦点をしぼって、体系立てて集中的に学習できる。特定テーマで難易度を段階的に引き上げていく学習も可能。必須知識・スキルの習得が不十分なら、必ずその不足が発覚するようにし、自分の能力の欠如を適切に把握できる。

●OJTの現場は、一般的ケースと例外的ケースが玉石混淆
現場では必ずしも、まず覚えておきたい一般的なケースに遭遇できるわけではない。師の適切な指導がない場合、何が基礎で、何がレアケースなのか判断がつかず、不適切な事例や例外的な事例を一般化して覚えてしまうことも。
OFF-JTでは、特定テーマにおける基本的なモデルと、例外的な事例・対応を整理して学ぶことができる。

●OJTはやり直しがきかない
OJTは死守すべきスケジュールもあるし、すべての工程・タスクが基本的に一度きり。
OFF-JTは必要なシーンを切り取って何度でも繰り返し練習、やり直しができる。

●予備知識がない状態では、現場経験から多くを学べない
人はすでに知っている何かと脳内の記憶が結びつかない限り、新たな情報を吸収できない。現場でいくら経験しても、右から左に抜けていくばかり。あるいは、教えた側が想定しない形で単純化して理解しているといったことが起こる。
まずOFF-JTで経験の土台となる思考の枠組みや概念、メンタルモデルをもつことで、現場で経験を振り返りながら意識的に課題に取り組み、学習を能率化することができる。

●モチベーションが低いと、現場経験から多くを学べない
仕事そのものや、学習テーマに対してモチベーションが低い状態だと、現場に突っ込んだところで、これまた右から左へコースに。それを学ぶことの重要性、興味喚起、学習を邪魔する固定観念の払拭などが必要な場合は、まずOFF-JTでモチベーションを高める施策を打ったほうが能率的。

●OJTの成否は、師の属人性に左右される
OJTの成否には、師の能力や関わり方が大いに影響する。師が必ずしもその道のエキスパートではないし、忙しい現場では特に、指導が不適切であったり、十分なフィードバックが得られないといったことも起こりがち。
OFF-JTも指導者のアサイン次第だが、拘束時間が限定的なOFF-JTでエキスパートを講師に招聘することは現実的に叶いやすい。そこで集中的に、学習者のアウトプットに対して個別フィードバックの機会を設けたり、学習者と講師がそれぞれ同じ課題に取り組み、プロセスやアウトプット品質のギャップを分析する機会をもてば、短時間で充実した学習機会を得られる。

●OJTは、学習者の能力評価に焦点をしぼりにくい
現場ではプロジェクトの成功が何より重視され、学習者の能力アップは二の次になる。プロジェクトがうまくいけばOK、いかなければNGといった評価になりがち。しかしプロジェクトの成果は必ずしも、学習者個人の成績ではない。
OFF-JTの目的は、学習者の特定能力の向上が第一義の目的となる。目的に基づき、プロセスや成果に対する学習者の能力面に焦点をあて、振り返りやフィードバックができる。

●OJTだと、現場では珍しいor危険な状況は体験できない
現場で珍しいor危険な状況は、そのシチュエーションが来るまで待つほかない。また、そうした状況は未習得者に任せられないため、実質経験することが困難。
OFF-JTでは、シミュレーション課題によって、現実世界でダメージを負うことなく失敗から学べる。安全に経験のレパートリーを増やすことができる。

もちろんOFF-JTはOFF-JTで、この強みを発揮できるよう入念に分析・設計・開発・実施・評価しなければいけないわけだけど、まぁそれをやってこそのOFF-JTだと思うから、頑張る…。最近はOFF-JTとOJTセットのクライアント案件も手がけており、双方の強み・弱みを踏まえて有意義な学習の場をデザインできるよう精進したいお年頃である。

2013-12-04

エキスパートと初心者の違い

エキスパートに関するメモ。〈新装版〉「経験知」を伝える技術(ドロシー・レナード+ウォルター・スワップ著)の第3章から、多少の個人的解釈を含んだ要約。

まず、エキスパートの要件っぽいもの。

●少なくとも10年以上の集中的な練習と経験を積んでいる
●経験とは、漫然としたものではなく、十分な振り返り、意識的な課題への取り組み、かつコーチの指導とフィードバックをもったもの
●豊富な経験のレパートリーをもつ
●システム全体に関する統合的理解がある
●経験に基づく高度に一般化された知識、抽象化された知恵をもつ

エキスパートが具体的な状況に直面したときの表れ。

●パターン認識能力が高い
初心者には分からない微妙な違いを識別し、
豊富な経験から適切なパターンを見出し、
客観的にものが見られる。

●先読み能力が高い
少ない情報からでも大局をつかみ、
仮定の選択肢をさまざまに想定し、
先の展開を予測して可能性とリスクを見抜く。

●意思決定が迅速
問題解決に重要な情報を選別し、それだけに集中、
質の高い解答を素早く導き出し、
迅速に意思決定できる。

初心者は、少ない経験を一般化してしまい、そのときの経験に判断を左右されすぎる。あるいは、判断を先延ばして様子をみようとする。前にも進まず切り捨てもしないで、なんとか全部こなそうとする。

エキスパートが新しい状況に直面したときの表れ。

●メタ認知能力が高い
自分の知識の欠落や例外的な状況に気づき、
自分の経験則の適用範囲を慎重に見極め、
目の前の状況を対して一般的なルールを適用すべき場面か否かを見分けられる。

初心者は、無知・過信・先入観によって、未知の経験を自分の見知ったパターンにあてはめてしまう。あるいは、そもそもある知識領域にどのような知識が含まれるのかわかっていない。

※追記
ちなみに多少の個人的解釈というのは、最後の部分。本書では「無知・過信・先入観によって〜」をエキスパートがおかす過ちとして書いていたけど、前に「エキスパートは自分の経験則の適用範囲を慎重に見極める」って書いてあるのと矛盾する。なので、真のエキスパートはそこを適切にふるまえるって解釈して、これは初心者のすることとざっくり整理した。

ただ、長い経験をもつ人こそ注意したいポイントではある。「健康な自信と、不健康な慢心を隔てる壁はとても薄い」のだ。村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」より。

2013-12-03

直接フィードバック

ひと月半ほど前、32年間続いた「笑っていいとも!」が、あと半年で終了するというニュースが日本中を駆け巡った。私も会社の自席でネットを通じてそのニュースに触れ、ついにかぁと静かに受け止めたのだったが、それからしばらくして席を立ち、エレベーターに乗って1階に向かっていたときのこと。

エレベーターが途中階で止まり、ドアが開くと別の会社の20代後半くらいの女の子たちが3、4人乗ってきた。まさに「笑っていいとも!」の話をしていたので聞くともなく聞く。すると女子Aが「笑っていいとも!終わっちゃうんだったら私1回ぐらい出たいなー」と言うので驚いた。

その後に続く女子Bの切り返しも実に自然で、「そうだねぇ、ポルトガル語がしゃべれる〜〜とかだったら出れるんじゃない?」って、具体的なネタの検討に入ってるよ…。この子らにとっては、それがフツーなのか。これが世代間ギャップというやつか。「終わっちゃうんだったら1回くらい〜」の後に続くフツーの視聴者の発想って「観に行きたいなー」だと思っていた。

これが本当に世代間ギャップなのか、ただの個人差なのかは知らないが、ここはとりあえず世代間ギャップがあると仮定して考えてみよう。時代は全員参加型、みんなで作る、舞台の上とか下とかの区別はどんどん曖昧になっていく、フラットな世界観が広がっていくのだ。

として、この時代変化に健全に対応していくためには、どう旧来型の態度を改めるべきであろうか。って心のうちで問答していたら、このところぽわーんと思っていたことを思い出した。はっきり言って、上の話とこの後の話がどれくらいつながっているかはよくわからない。

ともあれ、自分が長くつきあっていきたい製品とかサービスとかブランドとか会社とかに対して、正面から自分の意見をフィードバックしていくってことが、ごくフツーの健全な態度になっていくかなぁというのが、最近ぽわーんと思っていたことだ。

へたな客意識とかなくして、黙って買うか買わないか使うか使わないかだけの意思表示しかしないんじゃなくて、もっとこういうふうに使えたらいいとか、こういうところが使いづらいとか、そういうことを作り手に直接フィードバックしていく。そういうフラットな意見の流通が一般的になっていくのかもなぁと(やっている人は時代に関係なくやっているのだろうが)。

もっとも、こういうコミュニケーションは客側に「期待を込めて」「長くつきあいたいからこそ」という意識がないと本物にならないし、企業側も「相手をクレーマーと思わない」「サービスをよりよくするための意見」って受け止め方でないと価値化されない。この共通認識をもった信頼関係を築くのに、従来型のビジネスにはそれなりの時間がかかるかもしれない。

一方で、インターネット界隈のサービスは、そういうことを先んじて進められそうな風土を感じる。だいたいサイトには「ご意見求む」というフィードバック用のフォームがあるし、価値のある意見なら前向きに検討してくれそうな空気感もある(というのは私の個人的感覚にすぎないが)。そこに期待を込めて直接言葉を返していくっていうのは、私の中の旧来型の客意識をかえて、ちょっとやっていきたいなぁという気もする(ゆるふわ)。

インターネット外でも、どこかで店員さんがお客さん対応に困っていたら、通りすがりの客として助けたりもするし、みんなで社会を作っていく、みたいな感覚は、少し前より広がっているかもなぁとか思う。あるいは、取り戻そうとしているのか。私が歳とったってだけかもしれないが。

2013-12-01

腰を上げる

冬の夜道など歩いていると、「もうかれこれ長いことお母さんと会ってないなぁ」と思い浮かぶ。亡くなった人と二度と会えないのはもちろんわかっているのだが、本当に会えないんだなぁというのを、毎回初めて知ることのように不思議に受け止める自分もいる。

やっぱりさびしいもんである。その度「もうこの先もずっと会えないのかぁ」と話を収拾するほかないわけで。その後にはきまって「人に会えるのはね、生きている間だけだよ」って伊坂幸太郎の「モダンタイムズ」に出てきた台詞を思い出す。ここまでが冬の夜道歩きのセットになりつつあるが、いや、ほんとに、大切な人と過ごしている時間ほど尊いものはない。

ここしばらく、晩に友人と会って話し込む機会に多く恵まれ、帰り道にはきまってそんな感慨を覚えた。いくらか閉塞ぎみだったりもしたけど、少しのんびりもしたし、仕事もあれこれあるし、またこつこつ大事にやっていこう。この数週間に手元で走り書きした思考の断片も、いつか何かにまとまって昇華するといいなぁと思う。ここにも何か表せるだろうか。

そして、気づけば12月。今年も暮れ。一年経つのが早いのか、そうでないのか、もはやそれすらよくわからなくなってしまった…。若い時分はもう少し「一年早いなぁ」という感慨をもって年の瀬を迎えていた気がするが、その感覚すら失われてしまって、どっからの一年だっけ?とスタート地点がたぐれない。ともあれ今を生きている。運動も再開しないと…。

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