意識が高い人、低い人
仕事がら「学習」をテーマに人と話をすることは多い。仕事場面はもちろん、イベント会場での立ち話や、プライベートのおしゃべりでも。そうした場で時々相談をもらったりするのが「職場で意識が低い人たちにどう働きかけたらいいか」というお題である。
「意識が高い人/低い人」とは最近よく聞かれる表現だが、なかなか使うのがためらわれる言葉だ。話の中で使われるときも、「いわゆる」を前につける人が多い。「いわゆる、意識が高い人」あるいは「こういう言い方はあまり好きじゃないんだけど、いわゆる意識が高い人」といった枕がつく。
なかなか、自分の言葉として使うのがためらわれる言葉なのだ。なんでだろうと考えてみたんだけど、絶対的に、全面的に「意識が高い人/低い人」と認定される人などいないという前提を、みんなが潜在的にもっているからではないかと思った。
意識が高いか低いかというのは、「すべてに対してではなく、何かに対して」「絶対的にではなく、相対的にみてどこかの誰かより」「生涯にわたってではなく、現時点でみるかぎり」「万人からではなく、自分(あるいは誰かしら)の主観的評価を含んでみたところ」意識が高い/低いのである、という不安定さ。
生まれながらにして、すべての事柄に対して意識が高い/低い人などいない。という気がするのに自分が誰かを、何の枕もつけずに「意識が高い人/低い人」と言いきってしまうことへのためらいが、人に「いわゆる」をつけさせるのではないかと妄想。
ともあれ、意識が高い人、あるいは中立的な立場をとるリーダー層が、意識が低い人を引き上げねばならないという使命感なりミッションなりを背負って話題にあげる。それにどう応えるかはもちろんいろいろで、その人の視点の持ち方や職場環境、悩んでいるポイントによって変わるわけだけど、「意識が低い人に何かを学習させる際、意識が高い人と同じアプローチをとっても、よい成果は得られない蓋然性が高い」とは言えるのではないか。
であるからして、もう一歩踏み込んで「意識が低い(と思われる)人」を捉え直してみてはどうかと。一つは「何に対して」意識が低いのか。一つは「何によって」意識が低いのか。
私が扱うのは学習なので、範囲としては「学習に対して意識が低い(と思われる)人」をテーマに考えたいのだけど、まず「何に対して」だ。その人は、本当に学習に対して意識が低いのかを深堀りしてみたい。
学ばせたいと思っている学習テーマに対して意識が低いのか、何かを学ぶという学習行為全般に対して意識が低いのかでも、取るべきアプローチは異なる。そして、もしかして学習に気乗りしないのは、学習テーマによるものではないかもしれない、ことも視野に入れないといけない。働いている職場環境、会社のこと、仕事のこと、業績のこと、プライベートのこと、人生のことで問題を抱えているのかもしれない。
だとすると、どんなに力をいれて学習そのものを促したって、いやそもそもそういうこと考えられる状況じゃないんだって、ということもある。その場合、どこまで介入すべきはかなり込み入った問題になるけれども、少なくともそういう視野をもって学習者の全体を捉えることは必要である。
「何に対して」が学習そのものだったとしても、「何によって」意識が低いかで、取るべきアプローチは変わる。
それを学ぶことの重要性を認識していないからであれば、どうしてそれを習得する必要があるのか、それを習得しないとどんなマイナスがあるのかを具体的に示してあげるのが有効だ。
重要性を認識していても、自分がそれを習得できると信じられなければ、やる気にはならない。自分がやったところで、難しそうだしものにできないだろうといったあきらめが背景にあるようなら、着実にものにできる習得のステップを具体的に示してやることが有効だろう。ゼロ地点からの小刻みなゴールを設定して示してあげたり、どれくらいの時間でどこまで習得できるといった時間目安を示してあげたり。
重要性はわかっているし、やればできるとも思えるけど、どうもその学習テーマに興味がわかないということもありうる。そうであれば、重要性を説いたり学習プロセスを示すより、それ自体の面白さや、習得することの楽しさを示してあげたほうが有効だろう。それを習得することで何ができるようになるのか目の前でやって見せてあげたり。その時はぜひ、にっこりと。
多くの場合、複数入りまじっているとは思うので合わせ技になるだろうが、ともかく「意識が低い人」で済ませずに、もう一歩踏み込んでとらえることで、いわゆる意識が高い人とは違うアプローチが具体的に検討できるかもしれない。おそらくは数年先の未来を熱く語るより、具体的な成功体験を積み上げていける道筋を仕事現場で着実に作ってあげたほうが能率がよいのではないか。
意識が高い人と同じアプローチで、高みを目指してみんなで一流になろうぜ!と威勢よく働きかけても、気持ちは離れるばかり、相手はしらける一方。繰り返し働きかければ、どんどん溝が深まって、意味がないというより逆効果・悪循環を引き起こしかねない。それよりは、別のアプローチで小さくとも確実な一歩をねらって歩み寄ったほうが成果につながるかも。
あとは、意識が低い(と思われる)人を見下さないことか。意識が低いというのは、冒頭に述べたように生来的なものではないと私は考える。自分だって、何かに対しては意識が高くても、何かに対しては意識が低い人であり、今ここでは意識が高い人でも、いつかのどこかでは意識が低かった人である。
品質への意識は高いが、コストへの意識は低いとか。テクノロジーには意識が高いが、クリエイティブには意識が低いとか。ユーザー視点にはうるさいが、ビジネス視点に欠けるとか。効率化には余念がないが、効果UPには貢献できていないとか。トレンドは押さえているが、知識基盤がいまいちだとか。仕事には真剣勝負だが、家のことは任せきりだとか。
自分がコミットしてほしいものに、相手がどれだけ意識を高くもたなくてはならないのか、というのは、冷静に一度はひいて考える必要がある。自分と同じだけの志しで、その仕事に、その学習テーマに向き合わなくてはならないのか。それは会社のミッションか、自分が望んでいるだけなのか、自分の価値観の押しつけになっていないか。
自分には自分の、人には人の、尊い価値観もあれば、止むに止まれぬ事情もある。仕事とどうつきあいたいかも人それぞれだし、プライベートでどういった事情を抱えているかも人それぞれだ。自分と共有する学習テーマの習得が、その人の人生にとってどういう位置づけのものかは、必ずしも自分と共通しないという学習者視点でとらえることも、一方では必要だろう。
もちろん、仕事において習得が必須だからこその使命感だったりミッションをもって取り組んでいるのがたいていだし、私はそういう人たちのサポーターとして働きたく、それを生業にクライアントさんの研修づくりに励んでいるのだけど。うまくまとめがつけられないので、この辺で。
« 子どもの心の解像度 | トップページ | 首痛の真相 »
コメント
« 子どもの心の解像度 | トップページ | 首痛の真相 »
人に大事なことを教えたくて本気で悩んでいる者です、何気無く検索したワードからこのページを見つけました。
冒頭に書かれていた、関わる相手が意識の高い人か、低い人か、という部分に共感を持てました。
自分自身がまず冷静に、相手を捉え直すという点をヒントにさせてもらいます。
不思議です、なにかを探しているとちゃんとヒントは転がっているんだなという気持ちになりました。
ありがとうございます!
投稿: 初めて拝見させていただきました。 | 2014-03-28 14:34
ご丁寧なメッセージをありがとうございます。嬉しいです。改めて読んでみて、こりゃ長文だなぁと反省しきりですが、お役立ていただけたようでしたら何よりです。
投稿: hysmrk | 2014-03-28 15:35