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2013-10-23

理由を野放しする

「この曲のどの辺が好きなの?」と問われて「メロディーが」とか「歌詞が」と答えるのをよく聞くが、それは必ずしも実際を言い得ていない。という話を聞いて、なるほどーと膝を打ったことがある。

いわく、それは自分が言葉で表現できるのがそれだったからそう言ったまでで、実際にはメロディーや歌詞とは別の(リズムとかハーモニーとか?)自分では意識化できていないところに、その曲を好きな理由があるってことがあるんだと。もちろん本当にメロディーや歌詞が良いってケースもあるわけだが。

「自分が感覚して味わえるもの」っていうのは、必ずしも「自分が要素分解して意識化できるもの」ではなくて、必ずしも「自分が適切な言葉に言い表せるもの」ではないのだなと。人間が感覚できる領域は、意識できる領域より広いということ?

そうやって考えると、「言葉には表現できないけど、私の中に感覚するもの」という存在が見えてくる。そうすると欲張りなことに、これを無視したくないなぁ、受け止めていきたいなぁと思う。

自分の言葉に表現できないものなんて、無意識のうちに「なかったこと」「なかったもの」にしてささっと片付けてしまいそう。だけど、かすかにでも自分が感覚できたものなら、それをすくって、言葉にできなくてもそこに置いておく、そういう余裕をもちたいものだ。

まぁ、いやなものにまでしぶとく執着したいとは思わないが、「なんだかいい」というものに対して、安易に言葉を与えず、そのまま理由を野放しにしておくというのもやり方だろうなと。いつか、それがきゅっとフィットする言葉に巡り合えたら素敵だ。

昨日久しぶりに村上春樹の「回転木馬のデッド・ヒート」を読み返してみたらこんな一節があって、そんなことを思った。

「芸術的感動の不便な点は、それをうまく言葉に表現できないという点にあります」と彼女はつづけた。「あるいは表現できたとしても、すごくステレオタイプなものになってしまう。紋切型・大時代・月並……まるで恐竜みたいにね。だからみんなもっと簡潔で簡便なものを求めるんです。自分の表現の入りこむ余地のあるものや、テレビのリモート・コントローラーみたいにパチパチとチャンネルを切りかえられるものをね。皮膚的なショック・感性……呼び方はなんでもいいわ」

「うまく言葉に表現できない私」って捉えるとなんだか残念な感じになるが、「簡潔で簡便なもの以上を感覚できる私」って捉えると健やかである。ものは言いようだ。

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