Facebookの云々
「Facebookで「ウザい」と思われてしまう投稿の特徴7つ」というような記事が、時々ネット上で話題にのぼる。この手のものに言及するのは気が引けるのだが、より本質的な、真理のようなものがあるなら、わかりたいな、と思い、読んで考えたことの走り書き。
問題の置き方が本質的じゃない。「来週からハワイに行ってきまーす!」「うまい餃子、食べた!」をウザいと感じるのは、投稿内容の問題ではない。読み手と書き手の関係性の問題だ。仲良しの「うまい餃子、食べた!」はウザいと感じないから試してみると良い。ウザいと感じない人が誰もいなかったら、表に出てまず仲良しを作ると良い。ウザいのは内容ではなく、相手との関係性に起因する。ウザさを取り除きたいなら、書き手が内容を選ぶのではなく、読み手が自分のSNS相手を選ぶことが問題解決の基本線だ。あるいは、誰の「うまい餃子、食べた!」も受容できる体質を手に入れるか、その相手と仲良しになるか。いずれにしても、コントロールすべきは読み手側にあるのだ。
と、わーっと考えたのだが、これは本質的真理に近いのか、それとも私の個人的見解に過ぎないのか。だとしたら、本質的真理とは何だろう。もし本質的な真理というようなものがあるのだとしたら、それが広く共有されれば、どんなものであれ、無用に書くことに気を遣ったり、疲れたり、腹を立てたりしないで済むと思うのだが。
という反面で、ある言説が表れて、それに反応して、無用に気を遣ったり、疲れたり、腹を立てたりしながら、ある種それをエネルギーにして何かを考えて、別の言説が立ち上がって…。そうやって、少しずつ真理に迫ったり、遠のいたりしつつ、結局真理なんてものはこれと断定できぬまま生きていくのが人間というものじゃないか、という気もしてきた。まぁ、だから、いいのか。
しかし、ウザいという言葉はしいたけと同じくらい身近にあると鳥肌のたつ言葉で、今回自分の書く言葉として使わざるをえなくて、かなりきつかった。やはり、お肌にあわない言葉は極力使わないでおくのが身のためである。
最近のコメント