うつろな必然性
サイレンをならして、通りを救急車が走り抜けてゆく。目の前を通り過ぎる前と、通り過ぎた後で、音が変わって聞こえる自分をぼーっと眺める。同じものを感覚しているというのに、物事が起こる前と、起こった後とでは、まったく違うもののように感覚することがあるんだよな。
それが起こる前には、まったく無計画で、行き当たりばったりで、必然性のないものだったのに、それが起こった後には、まるでそうなることが必然であったかのように、前のあれと今のこれがまるで太い因果関係で結ばれていたかのように感じられてくる、なんてこと。
自分の行いであれば因果関係の実感が伴わず下手な解釈をせずに済んでも、周囲がそれを安直に成功モデル化したりして。成功したそれは、前にあった何かと関連づけられ、因果関係を描かれて、成功モデルのお面をつけて世の中をかけまわったりして。
けれど、多くの成功は、そうそう必然性をもってなし得たものではなく、また成功モデルにならったからという、ただそれだけで成功した例もそうそうないのだろう。
成功モデルの知識が役に立ったという場合も、それは複数のモデルを知り、それらを咀嚼して、あるとき自分が置かれた状況で応用的に取り入れつつ、有効な打ち手をオリジナルに編み出したからこそ、それを実践したからこそ、あきらめずにやり続けたからこそ、成功したんだろうと思う。
多くの事柄は必然ではありません。しかし過去の事実をわれわれは必然的に起こったと見なしがちです(このポジショニングだったから成功した、とか)。歴史に学ぶ本当の価値は「似たような状況でもいろいろなことが起こりうるし、いろいろな戦略が有効であり得る」ということを知ることにあるのでしょう。
三谷宏治「経営戦略全史」
歴史に学ぶ本当の価値。たいへん共感する。それじゃなきゃ、つまらないしな。
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