« 「風立ちぬ」とタバコの扱い | トップページ | 夏の小確幸 »

2013-08-20

「風立ちぬ」の感想のような

自分が東京でのひとり暮らしをやめて、実家に戻って暮らすこと、というのを、折にふれ考えるのだが、今のところまだ現実味を帯びてはいない。いないが、そういうことを実際的に考える時期が少しずつ迫っているぞ、と自分に発破をかけてはいる。母が亡くなって以来、父のことはいつも気にかけている。

なのになぜ、考えるだけで立ち止まっているかといえば、まさに自分都合の理由だ。今の住まいのほうが交通の便がよく、会社にも行きやすいし休日も過ごしやすい。ひとり暮らしは気ままだし、人づきあいもしやすい。終電を気にせず残業もできれば、夜更けまで友だちと話し込むこともできる。そういう理由である。この生活がずっと続けられるわけではないという見通しをもちつつ、再び非常事態がやってくるまでは…と今は自分都合を通しているわけだ。

今の仕事を大事にしたい。父のことも大事にしたい。これ2つ並べただけで、もう破綻である。大事にしたいものなんて、2つになった時点で破綻するんだよな、と思う。複数になったらもはや、どちらも120%大事にしきることはできない。

1日24時間の中で、あるものに割いている時間は、他のものに時間を割けない。どこか一所に身をおいていれば、別の所にわが身をおくことをあきらめねばならない。一人の人間の中で、同時に2つのことはできない。何かを考え対処しているときには、心も体も頭も一方にもっていかれている。私個人の力量の問題もあろうが、0.1秒単位で切り取ってみれば、同時に2つのことをやってのける人間なんて、そうそういないだろう。ざっくり言ってしまえば、それが人間の器というやつなんだ、と私は思う。

しかし、そんな器だというのに大事なものを「1つだけ」にはなかなかとどめておけない。仕事なり趣味なり、家族なり友人なり、大事なものは一つ二つ増えていく。家族だけ取り上げたって、それもまた単一ではない。一人の世話にかかっているときには、他の家族のことは片手間になる。友人のことだって仕事のことだって、片手間にならざるをえない。それが、人間の器というやつなんだから仕方がない。

そこにまた、隙あらば自分の都合というのを持ち込んでしまう。大事なものを大事にしきることに手を抜いて、やれ交通の便がいいだの、やれ一人暮らしは気ままだのと自分都合を持ち込んでしまう。

そういうのを端からみて、利己的・身勝手と糾弾するのはたやすい。けれども、人間って多かれ少なかれそういうところをもっているんじゃないの?と自分を擁護したくもなる。そんな、どっからみても完璧、どこを切り取っても品行方正、聖人君子みたいな人、どこにいるのよと。大事なものを2、3だかそれ以上に抱えて、それなりに自己の欲求やら利益やらが絡みついてくる24時間、365日の日常を何十年も歩み続ける中で、いつどこの誰からみても全部完璧ですみたいな生き方できる人、どこにいるのよと。

千葉に帰ったって会社には通えなくはない距離だ。今の仕事も続けられるんだし、父親のこと今より大事にできるんだったら、今すぐ実家に帰って一緒に住めばいいじゃない。まさしく正論である。しかし、そうやって人生をパーツパーツで切り分けて正論で斬り裁いていくのは簡単だけど、一人の統合された人生の歩みとしてみたときに、それいっこいっこ善処していって、その完璧なパーツを組み合わせていったときに、どれだけの人が幸せな人生を得られるんだろう。

もちろん、今と事態が変わって非常事態になれば、家に帰る意思はある。けれど、今のところはもう少し、東京住まいを続けてもバランスがとれるかなと。そうやって人は、状況変化に応じつつ、エゴイズムのようなものを抱えながら、どっからみても完璧とは言えない人生をどうにかやりくりして生きていくものじゃあないの、と。

「風立ちぬ」という映画を観て、私が感じ入ったのはそういうことだった。飛行機をつくりたい。余命わずかと予感する結核の婚約者と、限られた時間を一緒に過ごしたい。毎晩仕事を自宅に持ち帰っては、夜なべして右手で設計図を書き、左手で病床の彼女と手をつなぐ。そんな中、ちょっと一服、タバコを吸いたいと思う。彼はそうつぶやき、部屋を出て吸ってきていいか尋ねるが、彼女は手を離さず、ここで吸えと言う。そして、そのままタバコを吸う主人公。

私には、その1シーンが、今の自分の選択と重なってみえた。いろんなものがごたまぜになった中で毎日を生きていくこと。自分が大事にしたいもの、自分の中にあるエゴイズムのようなもの、そういうものと折り合いをつけながら、今の状況とバランスをとりながら、一つひとつの自分のふるまいを日々選択していくこと。

最近の私たちは、何かを深く理解するのにそれを分解して捉える。これは、AとBとC、3つの要素で成り立っていますというふうに解体して理解する。あるいは、Aのこの部分がなっていない。Bができていないというふうにパーツごとに問題を特定して善処に向かう。けれど、それはやっぱりパーツであって、一旦解体したそれを再び統合して一体に戻してみてみないとわからない。

私たちは統合されたそれとして、ほころびを内包しながらもその時々でバランスをとって、なんとか一体をなしているんだってこと、一生を生きているんだってこと、そういうのが人間なんだなと。映画を観て感じ入ったのは、そんなことだった。

« 「風立ちぬ」とタバコの扱い | トップページ | 夏の小確幸 »

コメント

この前の日曜日、風立ちぬ見てきました。僕も仕事しながら手をつないで、タバコを吸いたいというシーン、すごく印象に残ってます。

人間てこんなもんだよな、と思いました。特別偉くもないし、馬鹿でもない。

なんだかもう一度観たくなりました。冒頭の夢の中の飛行機のシーン、良かったなぁ。

sasakiさんも映画ご覧になったんですね。あのシーン、印象的ですね。タバコを吸う主人公の後ろ姿に、いろんな人がいろんなことを思ったのでしょうね。
人間の器っていうのを背負って、私たちは生きていかないといけないんだなぁって、思いますね。私もあの映画は、もう一度観に行きたいなぁって思っています。そうそう、対照的に夢の中世界は彩りに満ちていて、胸がふくらみましたねぇ。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「風立ちぬ」の感想のような:

« 「風立ちぬ」とタバコの扱い | トップページ | 夏の小確幸 »