« 2013年6月 | トップページ | 2013年8月 »

2013-07-22

頭でっかち問題

夏なので、夏目漱石を読んだ。というのは冗談だが、この間たまたま話題にあがって、その数日後にふらり本屋さんに寄ったら「こころ」が目にとまったので、これもご縁かと手をのばした。

いやぁ、夏目漱石ってこういう視点で物語を書く人なのかーと、この歳にして…。しかし、「こころ」はまさしく心のうちであった。人間の心って、かぎりなく個別的でありながら、ある面ではかぎりなく普遍的なものなんだなぁと思わされる。時代、関係なさすぎである。

先生が、自分は「高尚な理論家」であると同時に「迂遠な実際家」だったと話すところがあるんだけど、いつの世も頭でっかち問題というのはあるんだな。高等動物のさがなんだろうか。

時代とともに理論や思想はどんどん洗練されていくのに、実際の自分、実際の世界というのはまったく矛盾に充ち満ちていて、理論や思想が洗練されればされるほど私たちは混沌としていくみたいだ。

いつの時代も私たちは、高尚な理論と迂遠な実際のギャップに直面してうろたえてきたんだろうかな。あるいは直面することを恐れて、実際を軽視したり無意識の底に沈めたりして。

思うとおりにはいかない、理論どおりにはおさまらない、矛盾した自分を内界にもち、矛盾した世界を外界にもって生きているって前提を受け止めてかからないと、どんどん自分の心と実際がかけ離れていってしまう。

そして自分の不完全さを棚上げしたまま、他人の矛盾、世の中の矛盾をどんどん許せなくなってしまうようで怖い。

なんというかな。最近は誰でも公けにもの言える場が増えて、人の言行の矛盾を批判するのは極めて容易なご時世だ。だって人も世の中も矛盾だらけだもの。外野から人の矛盾を指摘するなんて、やりたい放題なのだ。その行為自体にもの申したいわけじゃないし、そこから問題が具体化されて物事が発展していくことだってあるから、健全で大事な一歩になることも少なくない。

でも、外に向けるのと同等のエネルギーをもって自分を省みておかないことには、バランスが悪い。内に向き直ってみて、己の言行のなんと矛盾の多いことか、これをしっかりわきまえないことには、バランスがとれない。自分を知って、自分を許すところから始めないと、ほかの人を許すことなんてできない。自分もほかの人も、人間も世の中も不完全なんだなぁという実際から始めないと、いっこうに前に進めない気がする。

なんらかの分野で実際家として活動する私たちは、たいていは「その実際を知らない人」には見えないさまざまな矛盾や混沌や事情ややるせなさやを抱えて、それでもその当事者として事にあたっている。しかも、不完全な人間として、不完全な世の中で。しかも、私のべきがあの人のべきとはかぎらず、今の善が10年先の善ともかぎらず、この土地の正義が彼の地の正義ともかぎらぬ曖昧な世界のなかで。

そういう前提を背負ってみんな事にあたっていることへの想像力と思慮深さを、私は大事にしたいと思う。それから、自分が吐く言葉より、自分自身が薄っぺらくならないようでありたい。って、なんの話だっけ、というところで散漫に終わるが…。ごきげんよう。

2013-07-21

いとおしい大人

ラジオというと、パーソナリティーとリスナーがやりとりするインタラクティブな番組をまずイメージする。リスナーからメッセージを受けつけて、パーソナリティーがそれに応対しながら番組が進行する。

そのことは子どもの頃からわかっていたけれど、それはそれ、これはこれ。私は昔からラジオを「聴くもの」として扱ってきた。自分がメッセージを送るという発想が子ども時分にはなかったし、大きくなってからも特別そうしたいと思うことがなかった。性分のようなものだろうか。はたまた千葉の片田舎で育ったからだろうか。

ただ、もう10年ほど前になるかしら、人生で一度だけラジオ番組にメールを送ったことがある。突き動かされたのだ。勝手な話だが、この番組がこのまま終わっちゃいけない、と思ったのだ。

うちはテレビがないので、その頃はよく、聴くともなくFMラジオをつけて過ごしていたのだが、ある晩、22時くらいから始まる若者向けの番組で、聞きづてならない話が耳に入ってきた。

確か、これから社会に出るという若いリスナーからのメールがきっかけだったと思うのだけど、「サラリーマンになって毎日くたびれた顔して生きるのもいやだし…」みたいなメッセージに対して、ラジオのパーソナリティーが「だよなぁ!」と全面肯定して、「サラリーマンは全員くたびれた顔していやいや仕事してて目的もやりがいもない奴ら」的な物言いを続けたのだ。

それを聴いて、おいおい、馬鹿言っちゃーいけないよー、と。若い子らが聴いている番組で、「サラリーマン」ひとくくりに偏った印象与えて、このヤローと。なんだかそのままではやりきれなくなってしまって、多少の逡巡もあった気がするけれど、人生初「ラジオ番組にメールを送る」行動に出た。

送ったメールは少ししてから読まれて、「いや、ほんと、そうだ。ごめんな。」とコメントされて、事なきを得た?のだが。

また別の機会に、飛行機の中で隣り合わせた男の子とひょんなことからおしゃべりすることになり、私が楽しそうに仕事の話をするのを驚かれたこともあった。「仕事が楽しいと言っている大人に初めて会った」と。

考えてみれば、私も「サラリーマン」というものに、学生の頃特別キラキラした印象はもっていなかった。ひとくくりに「サラリーマン」とみていたような気もする。けれど、二十歳のときにたまたま入社した会社が、フルカラーでも表しきれないような彩りを、私の「サラリーマン」像に与えてくれた。

当時、社会に対してこれといったイメージをもたなかった私は、その会社に入って目にするすべてを、社会とはそういうものかと素直に受けとめた。会社には、こんな芸人みたいな人がいるのか、こんな女優さんみたいな人もいるのだな、こんな猿みたいな人もいるのか、こんなストイックな人もいるのだなぁ。そして、その多様さのすべてを受け入れ、生かす心意気で会社があった。90年代のことである。

昨晩は、その頃の皆さんが集まるOB会があり、21時過ぎに仕事を切り上げて会場に向かった。退職以来お会いしていなかった方との再会もあり、しかしみんな変わらず元気でバラエティ豊かな変人で、とても心地よかった。

あと、やっぱり10数年のときを経ても、声っていうのは変わらないなぁと。あぁ、あの人の声だ、そのままだ、と。声って、音の振動って、何よりもその頃の空間を身体によみがえらせるんだなぁと感じ入った。

社会に出たての二十歳の私に、仕事は楽しいものなのだと刷り込んだ諸先輩がた。時を経てお会いして、頭に浮かんでくる言葉は「いとおしい」だった。諸先輩がたを表すのにこれでは礼を欠く気もするが、なんだか一番しっくりいく言葉だ。

今夏、というか今年は仕事づくめで暮れていきそうな勢いだけど、とてもやりがいのある仕事に巡りあわせてくれたこの会社に、この会社を通した出会いに改めて感謝して、たのしく、よい仕事をしようって思う。

2013-07-06

キャリアとは

仕事が立て込んできて、忙しい日々を過ごしている。ゆったりした時期もあれば、忙しい時期もあるってことなんだろう。しばらく休みはとれなさそうだが、世の働くお母さんに比べたら悠長なものである。最近は(年齢が年齢なだけに)自分の周囲にお母さんをしている友だち・同僚も増えるいっぽう。その奮闘をかいま見る機会が頻繁にあるのだが、その都度脱帽である。

私は父を除けば特別家族の心配はしておらず、テンポラリーであちらこちらの部分的サポートをするのが役割。そういうテンポラリーな役割を、機会をいただける限り大事に取り組んでしっかり納めていくのが、私ができる精一杯の人生の仕事なんだろう。そう思うようになって久しい。

なので、世のお母さんというのは、自分とはまったく別次元の尊い仕事をしている人に見え、おしゃべりを聴いていても、子どもをあやす姿を見ていても、なんだか神々しい感じがする。

昨日、友人の会社に呼ばれて、2時間ほど社員の皆さんの前でお話をした。キャリアについて考える会ということで、以前slideshareで共有したスライドを、今回の趣旨にあわせて再構成しつつ、話しはじめに「そもそも、キャリアとは何か」という話と、「キャリアについて考えることに意味はあるか」という話をした。

終始私テンションでのらりくらりお話しさせていただいたのだけど、フィードバックいただいた感想を読んでいると、私のした一つの話から、それぞれの人が自分の立場でいろんなことを感じ、思い、考えを展開していくのだということが実感できて、あぁこういう場をもたせてもらえて良かったなぁと思った。

冒頭で話した「そもそも、キャリアとは何か」「キャリアについて考えることに意味はあるか」のところだけ切り出したスライドをslideshareにあげたので、もしよかったらご覧ください。ひとつ、とても伝えたいことは、人のキャリアは他者によって評価しえない、ということです。

キャリアとは

« 2013年6月 | トップページ | 2013年8月 »