頭でっかち問題
夏なので、夏目漱石を読んだ。というのは冗談だが、この間たまたま話題にあがって、その数日後にふらり本屋さんに寄ったら「こころ」が目にとまったので、これもご縁かと手をのばした。
いやぁ、夏目漱石ってこういう視点で物語を書く人なのかーと、この歳にして…。しかし、「こころ」はまさしく心のうちであった。人間の心って、かぎりなく個別的でありながら、ある面ではかぎりなく普遍的なものなんだなぁと思わされる。時代、関係なさすぎである。
先生が、自分は「高尚な理論家」であると同時に「迂遠な実際家」だったと話すところがあるんだけど、いつの世も頭でっかち問題というのはあるんだな。高等動物のさがなんだろうか。
時代とともに理論や思想はどんどん洗練されていくのに、実際の自分、実際の世界というのはまったく矛盾に充ち満ちていて、理論や思想が洗練されればされるほど私たちは混沌としていくみたいだ。
いつの時代も私たちは、高尚な理論と迂遠な実際のギャップに直面してうろたえてきたんだろうかな。あるいは直面することを恐れて、実際を軽視したり無意識の底に沈めたりして。
思うとおりにはいかない、理論どおりにはおさまらない、矛盾した自分を内界にもち、矛盾した世界を外界にもって生きているって前提を受け止めてかからないと、どんどん自分の心と実際がかけ離れていってしまう。
そして自分の不完全さを棚上げしたまま、他人の矛盾、世の中の矛盾をどんどん許せなくなってしまうようで怖い。
なんというかな。最近は誰でも公けにもの言える場が増えて、人の言行の矛盾を批判するのは極めて容易なご時世だ。だって人も世の中も矛盾だらけだもの。外野から人の矛盾を指摘するなんて、やりたい放題なのだ。その行為自体にもの申したいわけじゃないし、そこから問題が具体化されて物事が発展していくことだってあるから、健全で大事な一歩になることも少なくない。
でも、外に向けるのと同等のエネルギーをもって自分を省みておかないことには、バランスが悪い。内に向き直ってみて、己の言行のなんと矛盾の多いことか、これをしっかりわきまえないことには、バランスがとれない。自分を知って、自分を許すところから始めないと、ほかの人を許すことなんてできない。自分もほかの人も、人間も世の中も不完全なんだなぁという実際から始めないと、いっこうに前に進めない気がする。
なんらかの分野で実際家として活動する私たちは、たいていは「その実際を知らない人」には見えないさまざまな矛盾や混沌や事情ややるせなさやを抱えて、それでもその当事者として事にあたっている。しかも、不完全な人間として、不完全な世の中で。しかも、私のべきがあの人のべきとはかぎらず、今の善が10年先の善ともかぎらず、この土地の正義が彼の地の正義ともかぎらぬ曖昧な世界のなかで。
そういう前提を背負ってみんな事にあたっていることへの想像力と思慮深さを、私は大事にしたいと思う。それから、自分が吐く言葉より、自分自身が薄っぺらくならないようでありたい。って、なんの話だっけ、というところで散漫に終わるが…。ごきげんよう。
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