この目を通して
ゴールデンウィーク後半は、千葉の実家に帰った。帰省途中でカーネーションを買った。最寄り駅まで父が車で迎えにきてくれ、そのままお墓参りに行った。すこし早いけれど、母にカーネーションを贈りに行く。
私は母の眠る墓地が好きだ。毎度そう長居するわけではないけれど、そんなにだだっ広くなく、かといってせせこましくもなく、開放感があって居心地のいいところだ。比較的新しいこともあって、あんまり墓地墓地していないし(おどろおどろしくないの意)、足を運ぶ時はたいてい快晴のお天気で迎えてくれる。墓地だから当然といえば当然だが、空が全方位にひらけていて360度見渡せるのもよい。お墓のメンテナンスも良くやってくださるので、いつ行ってもきれいだ。
今回も澄み渡る空のもと、5月の陽光をさんさんと浴びながら簡単なおそうじをして、お墓にカーネーションを飾った。水を浴びた墓石がきらきらと輝く。墓石は濃いグレイ、中にブルーの小石がちりばめられていて、陽の光を浴びるとそれが上品に光る。
私はまるでアクセサリーに関心がないが、母はよく身につける人だった。彼女が上品な宝石を身につけ、笑ってカーネーションを受け取ってくれているような心持ちになり、しばしそのたたずまいを眺めた。
すると一輪だけ、こちらに背を向けているカーネーションが目に入る。私は一歩前に出て、こっちに向けたほうがいいなと手をかけた。が、いや母が喜んで匂いをかいでいるのかもしれない。とすると、花はこちらから見ると背を向いていたほうがいいか、と思い踏みとどまる。んー、じゃあ他のも?いや、全部を墓石のほうに向けたら、それはそれで「それじゃあ、そっちから見てきれいに見えないでしょう。そのままでいいのよ」と突っ込まれそう。とか、ぐちゃぐちゃ頭のなかで考えて、結局一輪だけ墓石のほうに顔が向いているままにした。無造作に挿しても、花は自然にうまいこと収まってくれるものだ。
お線香をあげて、父、私と順にしゃがんで手を合わせる。何か、伝わるのだろうか。それとも父と私は、父と私のために、手を合わせているのだろうか。それは死ぬまでどころか、死んでもわからないんだろうが。世の中には、ただ導かれるままにやるってことがあるものだな。ただ、そむかないだけ。自然が導くままに、手を合わせる。
助手席から車窓をながめる。まさに5月という若葉が駈けていく。こちらも陽の光を浴びて、きらきら感が半端ない。すごい緑だねぇと言うと、そう見えるのはおまえが若葉をみる目をもっているからだと父。若いとそういうのが見えるんだろうね、と自虐的なニュアンスだったが、私もそう若くはない…。むしろ、こんなに若葉がきらきら見えるのは年を取ったからこそではないか、とも思う。
どんな景色も、どんな出来事も、どんな人間模様も、人間は「そのときの自分」フィルターを通してそれをとらえたり、あるいは取り逃したりする。私たちは、自分フィルターを通さずに外から情報を受け取ることができないのだ。自分がどんなフィルターを通してこの世界をとらえているのか、私はそれに自覚的でありたい。そして、できるだけ健やかに、できるだけ私らしく、より豊かな目で、この世界をとらえていきたい。そんなふうに思っている。
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