機械と競争して家族が拡張する
週末、実家近くの大型スーパー(イオン)に立ち寄ったら、レジの半分が「セルフレジ」に変わっていた。半分は人力レジのままなんだけど、半分(10コくらい)は客が自分でカゴの中の商品をかざして機械にバーコードを読み取らせてお会計するスタイルになっていた。
せっかくなのでセルフレジに挑戦してみたら、いとも簡単にできてしまって、またびっくり(私は機械音痴だ)。銀行のATMみたいに、画面と声のナレーションで操作をナビゲートしてくれるんだけど、いやぁ、わかりやすい。さっさとできて待ち時間もない。
父に訊いたら、他のイオンの店鋪でもセルフレジが導入されているのを見かけたとか。こういうのは郊外のほうが進みが早いのかもしれない。まぁ、すでにそこら中でデジタル・オートメーション化は進んでいるわけだけど、あぁついにここまで来たか、という感じ。
ちょうど「機械との競争」を読んだばかりで、この一節が脳裏によみがえる。
未来のいつかの時点で、それは数年先かもしれないし数十年先かもしれないが、ともかくいつかの時点で、"平均的な"人間の大多数が従事している仕事を機械がこなせるようになるだろう。そしてこの人たちは、新たな職を見つけることはできまい
最後の一言がまた、ひどいのなんの…。本文中で引用されていたマーティン・フォード「トンネルの先の灯り」(未邦訳)より、テクノロジーが人手を駆逐する雇用喪失説。
「機械との競争」は米国の本の翻訳なんだけど、著者いわく。
アメリカではここ数十年を振り返って、技術の進歩も富の創造も停滞していない。ただ、国民の所得が伸びているのは「平均値」で、「中央値」で見ると停滞している。つまり、富の分配が偏っていて、儲けているのはごく一部、あとはさっぱりの状態。ざっくり言って、ここ30年くらいで富が増えたのはアメリカの2割の世帯、残り8割の世帯の富は減っている。労働の対価だけでなく、雇用の数(求人数)も低迷しているという話。
ものすごいアメリカアメリカした本で(個人的イメージ)、データを挙げて、どこそこの経済学者はこう言っていた、どこそこの経営者はこう言っていたと扇情的な物言いが続くので、「まぁそういう事象の見方もできる」という偏った部分もあるかもしれないけれど、とりあえず著者はさまざまな根拠を示してこう説く。
端的に言って、中間層の労働者はテクノロジーとの競争に負けつつある。
さて、どうしよう。というときに、こちらも最近読んだばかりの「評価と贈与の経済学」の対談が頭に浮かぶ。人の話のつぎはぎでなんだが、思い浮かんじゃったんだからしょうがない。
この本の中で内田樹さんと岡田斗司夫さんは「拡張型家族」を提案している。これは、機械との競争って文脈ではなく、少子・高齢化など受けて日本社会全体がゆっくり勢いを失っていくことを背景に語られている内容なのだけど。
拡張型家族というのは、もう一回、大正時代のように「一人が働いて数十人を食わせる体制」に戻ったらいいんですよ、という提案。
アメリカと同じように日本も、ごく一部の人はより高い報酬で稼ぎをあげ、そうでない平均的な人は徐々に職を失っていくという二極化を想定すると、旦那様が一家を構えて数十人を養うってモデルはなるほど合理的な感じがしてくる。
役割や立場には名前を与えると市民権を得られるマジックが働いたりするので、昔でいうところの「執事」「女中」「書生」「居候」に変わるような、養われる立場の現代風名を用意したらどうか。
大所帯で住むとなると、世帯のシステム管理者がいるとありがたいし、その土地の文化を理解して近所の人とうまいことやってくれたり、役所手続きをやってくれたり、さまざまな家事をひとまとめにやってくれたり、奥さんの育児を手伝ってくれたり、多言語・文化に堪能で教えてくれたり通訳してくれたり、普段何もしないんだけど顔の広い人で必要なときにはコネが使いたい放題とか、基本的にだるいだるい言っているんだけど気は優しく頭のいい人で、相談するといろいろためになることを教えてくれるとか。何か狭く偏ったところで優れた知識・技能・技術をもっている人だとか。とにかく強面だとか、手先が器用だとか、体が強いだとか。
もちろん全部が拡張型家族に移行するっていうんじゃなくて、1割とかの話かもしれないが。移行じゃなくて、ある程度市民権を得た生き方の選択肢が増えるという感じ。「より豊かな社会」っていうのは、「より多くの選択肢から、より自分好みの解を自由に選べる社会」って考えると、社会に負い目を感じることなく選べる選択肢が増えるのは豊かさの追求ってことになるかなぁと。
大人になったら全員働くっていうのが基本で、それにもれると大変に後ろめたい思いをしなくてはならないっていうんではなくて(就活の失敗を苦に…みたいな)、市民権を得たいろいろな選択肢から一つ「拡張型家族で養われる」というスタイルを選べるっていうのは、ありなのかもしれないなぁと、もやもや考えた。今は「商業的な舞台で仕事ができる=名誉と稼ぎがある=人として優秀」みたいな見方に偏りすぎている気もする。もう少しゆるふわでもいいのかもなぁと。
あと、こうした拡張型家族の中で養われる中で、少しずつ実際的な役割というのをもって、役割を果たすことのやりがいを実感する機会を得て、そこからもう少し広い社会の中で役割を担って働きたいという気持ちが導出されることもあるかなぁと。そのほうが健全かもなーとも。
とりあえず、こんな感じでもやもやしているときは、下手に体系化して結論づけようとするより、多様化・個別化に向かったほうがいいんだろう。まとめられない話はまとめない、ということで、このまま終わる。
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