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2013-04-14

「人のために」という気持ち

「子供とか、まわりのみんなのためにホゲホゲするとかダメ」という話を興味深く読んだ。こちらの趣旨にはまったくもって賛同のうえで思うところを書くのだけど、だからといって、自分のなかに「人のために」という気持ちがわき起こったとき、そんな自分を速攻で卑しく思ったり完全否定しにかかることはないと思う。

そう思った自分を即「自分はなんて卑しい人間なんだ」と断じるようになっては息苦しいばかりだし、人がそう言うのをみて即「なんて卑しい人間なんだ」と蔑むようになるのも偏狭だ。それで、いろんな発言や活動がストップしてしまってはもったいない。

私はこれって階層構造でみている。自分の中にわく「誰かのためになること(仮説)」層の下層には必ず、「自分がやりたくてやっていること」という第一階層がある。そういう階層構造で自分の活動を捉えておければ、「人のために」という思いからとる活動も健全でいられると思う。

第一階層の自覚があれば、それが本当にその人にとって望まれることかはわからない、違ったらやり方を変えるなり踏みとどまったほうがいい、という選択肢も思い浮かびやすい。のめり込むと、途中でその構造を見失うこともあるので注意が必要だが…。いつでも全体構造に立ち返れる認識をもつことは大事だ。

あるいは、もう少し時系列的にみてもいいかもしれない。村上春樹の言葉で「世間の素晴らしい達成の85%までは、不純な動機から始まっています。」というのがある。私はこの言葉に共感する。何に動機づけられて始めるかはなんでもいいじゃないかと。結果的に人のためになる活動に結実したら、やって良かったねということになる。それは結局やってみないとわからないわけだが。

と本筋脱線も含めてだらだら書き連ねたのは、そう思わないと「人のために」と思ってしまうことがある自分がきついからで、自己正当化の文章でしかないかもしれない。けど、そういう指向の人は他にもいるんじゃないか。どうだろう。いるとしたら、同じことをこういう枠組みで捉えてみたらどうだろう、と共有したかった。で、文章に起こしてみた。

とりあえず、私は「人のために」という気持ちは、自分の認識のなかで第二階層以上に配置しておけるかぎりは健全、第一階層が見えない状態だとダメ、という仮説をもって生きてみる。結局、言い方を変えて、もとのお話と同じことを書いているだけな気もする。

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コメント

おっしゃってること,わかりますー

あとは自己表現の仕方の問題であって.このあたりのモヤモヤって,たぶん,人の目を気にし過ぎることに起因しているんだろうなーと思っています.

社会生活をする上でのマナーさえ守れていれば(というのも曖昧な書き方ですが),自分がやりたいこと(=第一階層)を誰か(自分/相手/他人)のためにやればいい(第二階層)んだろうなーと.

馮さん、ありがとうございます。言い訳めいた文章かなぁと不安抱えつつ書いたので、一人許してくれる人がいた!と安堵しました。ありがたし。

もとのお話を記された矢野りんさんが、こちらを読んで補足のエントリーを書いてくださった。うれしすぎる。
ということで、こちらでもご紹介。はぁ、うれしすぎる。そして、とても共感します。
「人のため」それ自体良いことだけど続かないんじゃないのかしら
http://yanorin.blogspot.jp/2013/04/blog-post_15.html

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