母のしごと
先週末は、学生時代の友だちの家に遊びに行った。同世代の友人というと、お母さんになっている人も少なくない。まぁ当然か。今回会いにいった友人の家にも二人の男の子がいて、もう5〜6回くらいは会っているだろうか。まだ二人とも小学校にあがる前で、やんちゃな盛りの兄弟だ。
子どもたちと一緒に遊んだり、大人だけでおしゃべりに花を咲かせたりして過ごしていると、そこにちょいちょい兄弟げんかが入る。いちいち仲裁に入っても仕方ないので基本は放っておくわけだが、いよいよ大変なぶっ叩き合いになってくると、母親である友人が間に入った。
けんかの原因になっていたコインを取り上げる。お金を入れるとメロディが流れる貯金箱で遊んでいて、小銭の取り合いになったのだ。お金はね、遊ぶものじゃないの。もうおしまい。
それから延々、弟くんのほうが「おかねー、ほしいー」「おかねー、ほしいー」と泣き叫びわめくモードに突入。これが、身近で聴いていると、かなり笑えるセリフなのだが、彼的には「おやつー、ほしいー」「おもちゃー、ほしいー」と変わらないようだ。
止むことなく、30分ぐらいは全身使って叫び続けていたのではないか。相当な体力だ。お母さんである友人は、床に座って彼の前に正座して、「おかねー、ほしいー」「おかねー、ほしいー」と言われる度「もう出てこないの。おかねは遊ぶものじゃないの。何度言っても出てこないのよ」と、のんびりゆったりとした口調で、彼の目を見てたしなめる。
休みなく再び「おかねー、ほしいー」「おかねー、ほしいー」と泣きじゃくる彼。「ほしいのはわかったけどね、何度言ってもね、もうあげないよ。おかねは遊ぶものじゃないのよ」と、ゆっくり微笑みながら返す彼女。
弟くんは、正座するママの膝の上によじのぼり、頭をこすりつけ、また繰り返す。それをだっこしたり、背中をさすってあげたり、ほっぺたを両手で包んであげたりしながら「ダメなのよ」と返す。10回、20回、30回、40回、何度でも、彼が繰り返せば、彼女は言葉を返すのだ。何度だって無視しない。とことんつきあう。いつまでか。10分、20分、30分、彼が止めるまで。たいていは、彼が疲れて眠りつくまでだろう。1時間くらい続くのはざらのようだ。すごい体力だ。
休日だからこそ彼女も、時間にも気持ちにも余裕があってできたところはあったようだけど、だからこそドタバタの仕事日には無理な分も、たっぷり甘えさせてあげようと(まぁ泣いているわけだが)腹を決めてつきあい続けていたんだろう。とにかくずっとずっと向き合い続け、受け入れ続けていた(コインはあげないけど)。彼女は昔からすこぶる包容力のある人だったけど、その姿にしみじみ感じ入ってしまった。
これが毎日のこと、一日の間でも朝にも昼にも夜にも何度でもやってきつつ、ハードな仕事もしつつ、ゴハンを作ったり食べさせたり洗い物したりもして、お風呂をわかしたり、子どもたちをお風呂に入れたり着替えさせたりトイレの世話をしたりしつつ、買い物したり、掃除したり、洗濯したり干したり取り込んだりしつつ、子どもたちと一緒に遊んだり話をしたり聴いたり保育園のお迎えに行ったりしつつ、その他いろーんなことをやりつつ、とにかく朝昼晩子どもたちを守り続け、育て続けて、毎日を生きているのである。これは、本当にすごいとしかいいようがない。
しばらく置いてみて、最近自分が感じている、自分に対する居心地のわるさみたいなのは、この辺りにあるんだろうなぁという気がした。自分の仕事は、本当にそよ風に吹き飛ばされそうなくらいささやかな仕事だなぁと思う。友だちの姿、母のしごとというのは、もう本当に、中身がぎゅぎゅぎゅってつまっていて、それなしでは子どもらが一気に路頭に迷ってしまうかけがえのないものなのだ。
まぁ今世ではもはや、私は結婚もしないだろうし子どもも生まないだろうから、自分の持ち場で最善を尽くすしかないのだけど。とにかく、この母のしごとの尊さというのは、実に人目につきにくい日々の積み重ねながら、人の尊い営みの最たるものだなぁと、心底思う。
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