肉声を聴かぬまま
「早すぎる死」というのは、人間が勝手にそう思ったり思わなかったりするだけのことで、早いとか遅いとかは、人それぞれのその時々の事象の捉え方の一つにすぎないのだと、あるときからそんなふうに思うようになった、気がする。
ものの、旧知の人に40代も前半で急逝されてしまうと、全力で「早すぎる…」と思っている自分に気づく。
ここ数年で、昔お世話になった方々とFacebookでつながり、再びそうした人たちの日常の出来事や考えや思いにふれることができるようになり、疎遠になっていた縁を取り戻した気分になり、いずれまた再会することもあるだろう、と無意識のうちに思っている。
だけど、とらえどころのない無意識下でそんなことを思っているうちに、人は急にいなくなってしまったりする。本当に。数日前まで元気でも急に、どうしたって会えないところにいってしまったりする。
それなりに人生経験を重ねてきて、頭ではわかっているつもりなんだけど、実際に直面すると、直面するたびに、参ってしまう。そんなことに慣れたくもないけれど。それにしたって、心はまったくわかっていない。何の学習も残っておらず、まったく無防備な状態で、それに直面する。
死をテーマに物思いにふけることは少なくないけれど、自分の生きている世界から、大事な人たちがいなくなってしまうのには、本当に参る。じゃあ、人間の力の及ぶところで、できることはなんだろうと考えると、自分も大事な人も生きているうちに、会って肉声を聴くことのほかにないんだろう。そして、運よく生き長らえている自分の生を、大事にすること。
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