長生きする可能性
finalventさんの「考える生き方」を読み終えた。相当よかった。今、この時期に読んで良かったなぁと思った。
考え方に似たところがある、といってはおこがましいが、死生観のようなものには特に共感するところがあった。長生きしない前提で生きてきた、というのか。私も母を59歳で亡くしてからというもの(って、たった2年だが)、自分は「長く生きて59歳」という前提が頭にへばりついて離れなくなった。あと、兆候を認めてからあっという間にこの世を去ってしまうことも、そう珍しいことではないという前提も。
もうだいぶ人生の終盤なんだなぁという感じ、残すところあとわずかだなぁという感覚がいつもそこはかとなく漂っていた。だから今からあまり責任あることを預かっても途中で放り出すことになっては良くないし、とにかく細かくできることを短納期で一つひとつやっていくのだ、という感じがあった。
同世代の人と話していると、自分がこの世から消える想定年齢は、どうやら人より短い見積もりのようだと感じた。一般には、同国同性の平均寿命まで生きるイメージを基本に持つのかもしれない。けれど、そういう想定は私の中に見つからなかった。
今考えてみるに、私はその可能性を無視したかったんだろうと思う。59歳くらいまでなら、どうにかやりきれるんじゃないか、という期待ももてる。けれど、その先まで考えたら、もはや自分の人生を自分で支えきれる自信がない。
一昨年末、祖母の見舞いで病院を訪ねたときに見た光景にも影響を受けている気がする。祖母のいる部屋に向かって入院棟の廊下をゆっくり歩いていくと、通り過ぎるどの部屋を覗いても、平均年齢90歳といったおじいちゃん・おばあちゃん方が何をするともなくベッドに横たわって並んでいる。8人だか10人だかの大部屋が、どの部屋もぎっしり埋まっていて、大晦日でも見舞い客がない。それも、私の中に強烈な印象を残した。
私がおばあちゃんになった時には、見舞う家族どころか入院費も払えないのでは…。って無意識が働いて、とりあえずそんな先は無い前提にしたかったんじゃないか。うーん、ずいぶん悲惨な文章になってきたな、こりゃ。
ただ、ここ最近になって、自分は59歳より長く生きることもありうるのか、という可能性に幾らか目を向けるようになった。「そんなに短くないかもしれない人生」に、向き合って生きていくことを、もうすこし大事に見つめてもいいんじゃないかなぁと、そんなことを思う今日この頃。それを受け入れる後押しを、この本もしてくれたように思う。
人生、成功はしないかもしれないけど、考えて生きていけばなんとかなるんじゃないか。なんとかなって、日々、それなりに生きている実感みたいなものを考えて見つけていけたら、それでいいんじゃないか。
うん、それでいいなら、というような。それでも大丈夫なのかもしれないな、と思わせてくれるような。いい本だったな。やさしくて、あたたかくて、懐が深くて、血のかよった文章だった。
それにしても、やっぱり不思議だなぁと思うのは、この本に出てきた「私が死んでも、この世界は続く」という事実。それより何より怖いのは「これから自分の知る人たちが、一人二人と消えてく」ということ。やっぱり、嫌だなぁ。失いたくない。みんな、私より長生きしてください。
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