酷評を読む
ある小説を読んだら、ぼろぼろ涙が落っこちてきた。泣きやすい本というのは、ある。映画にも、音楽にもあるように。心をわかりやすく揺さぶる作品。一方で、涙はこぼれないけど、静かに心に染み入る作品というのもある。泣ければ泣けただけ、よい作品というわけではない。涙の量と作品の評価に相関はないと考えている。けれど、とにもかくにも、今日読んだ本にはぼろぼろ泣いた。
読み終えた後、その本のAmazonのレビューをみてみた。他の人は、どんなふうに感じて読んだのだろう。けっこう派手な帯で平積みされていたから、レビューはそこそこついているはずだ。レビューをみにいく前に本の帯を改めてみてみたら、この本「LINE」で展開された連載小説の書籍化だった。位置づけ的にはケータイ小説に近いってことか。レビューがどんなふうか、なんとなくイメージが浮かぶ。読むの遅い私が、昼に買ってその日の夕方に読み終えたくらい、すぐ読めてわかりやすい本だったし、登場人物に「チャラい」のが出てくるし、その割りに扱っているのは生と死の重厚なテーマだし。これは…
予想どおり、Amazonのレビューには玄人読書家たちの酷評が連なっていた。ケータイ小説が出てきたときによく耳にした、薄っぺらい、深みがない、安っぽい、稚拙、語彙が貧弱、心理描写が浅い、リアリティがない、あの作家を意識している表現だが上っ面をなぞっているだけって感じがする、ゆえに説得力がない、感情移入できなかった…云々。
ぼろぼろ泣かされた後で、兄さま姉さまがたの酷評を読むと、その本に泣いた自分が薄っぺらい、深みがない、安っぽい、稚拙、上っ面しかみえずに生きている重厚感のない人間…と言われているようで、心にひゅるりーと北風吹く思いがするものである。
私はこういうとき、何をー!と息巻くタチでない。逆に、そうした無意識の反発に心奪われて真実を見逃すことがないよう細心の注意を払う。この玄人読者の声をいかに正面から自分の等身大で受け止めるかに意識を集中する。本当に大事なことは、どこにあるのだろうかと。
反発するのとは別に、玄人読者層に同調する逃げ道もある。玄人層の酷評をあびているものを指差して、自分もわかったふうに酷評する、それはそれでたやすいことだ。先人たちの言葉をなぞって、薄っぺらい、深みがない、安っぽい…と書き連ねれば、見ための玄人化は一丁あがりなのだ。
そして気を抜くと、人間の無意識は意識をそちらに引きずり込もうとする、そんな恐怖が私にはある。だからそっちにも行かないよう、無意識の勝手を注意深く監視する。「これを酷いと思わない自分は低レベルの人間なんじゃないか」という不安から逃れようとしたり、「自分は皆と同じ、この作品を酷評できる程度に玄人のはず」と信じようとしたりして、一所懸命だめな作品だと思い込もうとする無意識に気持ちをもっていかれないように。
そんな偽物の安心を、私は欲しない。自分が、自他の偽物の感情に人一倍アレルギー反応を生じやすい体質なのは、いい加減よくわかっている。ならば、そういうものは最初から持たないのが一番健康にいいのだ。
そんなわけで、無意識の勝手に振り回されないよう先手を打つ。この玄人層に比べれば、自分の見えているもの、知っていることというのは、ずいぶんと薄っぺらいものなんだろうなぁと受け入れてしんみりする。ひゅるりーと北風をあびる。早々に意識がしんみりモードに突入していると、無意識はもう手を出さない。遅かったか…と、あっさりその場を後にするのだ。
ここから。過剰にしんみりしていても、それはそれで真実を取り逃してしまう。弱者・被害者思考に陥るのも健全ではないので、慎重に、手探りで、行き過ぎないように、無意識の勝手から解放されたところで腰をおちつけて、抵抗の加減を探りだす。
実は、玄人氏が言うように私にとっても、その本で書かれていることの多くは、新しい気づきを得るものではなかった。そういう意味では、若い人向けの本ということは言えるかもしれない。けれど、私に関していえば「すでに見知った感覚にしか触れられていない小説に、読む価値はない」なんてことはない。
大事なこと、大事にしたいことは、日々私の中に積み重なっていく。すると先に手にしたことが、少しずつ心の底のほうに沈んでいってしまう。意識の上辺から遠のいていってしまう。それを時々、意識の上辺に持ち上げてきて、うん、ほんとこれは大切なことだよなって、見知った感覚を思い返す、そういう再確認の機会も大切なのだ。すぐ読めて、すでに見知った感覚をわかりやすく浮かび上がらせてくれるというのも、それはそれで一つの尊さだ。
世の中には、いろんな価値をもつもの、いろんな意味をもつものがある。あるところ、あるとき、ある人から見れば、ほとんど意味がないように思えることも、あるところ、あるとき、ある人から見れば、尊い価値をもつものだ。人の創り出した作品も、もちろん人間そのものも、そんなたやすく、どこかの誰かがある時点でつくった評価指標で決定的に裁けるものではない。
だから、開放された目で自分の中に起こるものを愉しまねばもったいない。私は、作品を評価するために本を読んでいるのではないのだ。読んで、自分が豊かになれたなら、それでいいじゃないか。たとえ、それがどっからどうみても駄作でも、その中の何かをきっかけに自分の内側から何かが引き出されたなら、それもまた素敵なことなのだ。自分の内側の豊かさこそ、作品の評価と相関するのではないかとも思う(それだけじゃないが)。その掛け合わさる豊かさを存分に享受して、作り手に素直に「ありがとう」って感謝したらいいのだ。
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