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2013-02-18

共感と違和感と

昨日書いた神保町の散策では、紀伊国屋書店がやっている「ほんのまくらフェア全国版」にのって3冊ほど文庫本を買ってきた。

「ほんのまくらフェア全国版」というのは、紀伊国屋書店が全国12店鋪で展開している本の闇鍋みたいなフェアだ。彼らが選書した数十冊の文庫本のカバーに、その本の書き出し(まくら)だけが記された独自のカバーが被せてあり、それをビニールでくるんだものがフェアの棚に並んでいる。買い手はカバーに書かれた「まくら」だけを頼りに本を買う。買った後でビニールをといて、自分が何の本を買ったのかを知るのだ。

これは「偶発的な本との出会い」の具現化として最たるアプローチではないかと思い、のってみた。のだが、そうやって手に入れたものが都合よく「あら、不思議。私の好みにぴったしかんかん!」となるわけでは勿論ない。でも、それでいいんだと思う。

放っておくと期待感というのは、無意識に「私が共感できるもの」に向かっていってしまうものかもしれないが、ソーシャルなんちゃらなこのご時世に、これ以上「私が共感できるもの」を追い求めることもあるまい。

確かに「共感できるもの」との出会いやふれあいは心地よい。100%それで満たされたら、その瞬間からしばらくは極楽かもしれない。が、人間ってどちらかというと、物事への違和感や不一致感によって己を知る生き物だと思うし、そういう環境下でこそ集団の中で己を生かせる生き物なんだと思う。

違和感や不一致、異臭や不協和音は、自分が嫌いなもの、苦手なもの、無関心なもの、未知のものを教えてくれる。すると自然、自分が好きなもの、守りたいもの、育てたいもの、取り入れたいものにも気づく。自分が周りの人とどう違うか、ならばどんなふうにお互いの違いを生かしたら有意義だろうかと考える機会を与えてくれる。同じものの中では、自分の固有性はうずもれてしまうばかりだ。見つけようもないし、生かしようもない。

似ている、共通している、共有できる、共感するって感覚は、やさしいし、あたたかいけれど、度を越すと生やさしかったり、生あたたかくもあって、あんまりつかりすぎるのも怖い。自分のこと、相手のことを、もっとよく見えるところに出て行ってお互いを生かし合えるなら、その風に触れていたい。

といって、共感ゼロのところに身をおくのもさすがにつらいわけで…。とすると、自分の身をおく環境っていうのは、共感と違和感のバランスがどれくらいのさじ加減になっているとちょうどいいんだろうなぁ、というのを考えていた。

どんな比率が好ましいかには個人差があると思うけど、どっちが多いにせよ、8:2までいくと結構バランス悪いんじゃないかしら。5:5か、多少どちらかを多めに偏らせるとしても6:4か、7:3までかなとか。8:2は、けっこう「ぬるすぎる」か「きつすぎる」んじゃないかなぁとか。とりあえず、共感できるものに囲まれて過ごす「10:0」を目指していくのは、極端にすぎるかなぁという印象だ。

というわけで今、私の手元には宗教性と生と死とボーイズラブが複雑に絡み合った、ドイツの上流階級の男子学園もの漫画がある(昨日読み切った)。確かにこりゃ自分じゃ買わんな…。文庫サイズの漫画本も含まれていたとは、予想外だった。

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