人をみる
小説を読み進めていると、登場人物の人格がなかなか定まらないなぁと思うことがある。いつまでも一人格のジグソーパズルが完成しない感じ。ピースが、左上のほうでひとかたまり、右下のほうでひとかたまりと分断されていって、一枚絵としてはどちらかというと散らかっていくばかりのように感じられる。
それで、これは登場人物の描き方が不自然だとかリアリティがないだとか一刀両断するのはたやすいのだけど、実際のところ人間というのは一個人の中に多様な顔をもっているものだし、見た目と中身もそう一貫性があるわけでもない。そう考えると次第に、このしっくりおさまらない感じをもってリアリティがないという結論づけこそ、おかしい感じがしてくる。
一貫性を求めている自分が、ステレオタイプなものの見方にはまっているだけじゃないか。一個人の中がごった煮に感じられるほうがよっぽどリアルじゃないか。「人格に立体感がある」と言い換えれば、なるほどという感じもしてくるではないか。
なんてことを脳内で議論して、結局は与えられるままに登場人物の印象をひろげながら読み進めていくことになるのだが、人の印象をこれと定めて見切りをつけず、いつまでも変えられるようにずっと開放させておくのは、現実世界でもやっていることだなぁと思い至る。
ものをみるときには、ある時点で見切りをつけてコトを次に進めようとする性向が、けっこうあるような気がするんだけど、人をみることに関してはまったく別物扱いになっている感がある。だって人間だもんな、というだいぶ本能的なところで。
中村勇吾さんが、今六本木ミッドタウンでやっている「デザインあ」展でこどもたちへ送っている「みるのはわたし」。これを読んだとき、私は「人をみる」ことをもっと深く楽しんで、もっと豊かにしていけたらいいな、と読みかえて味わった。私には「ものをみる」センスが呆れるほど無いのだけど、「人」のことなら、わたしだけの目で「みる」ことができるんじゃないかって気がしている。
何をどうみるかは、自分が全部決めている。ほんと、そうなのだ。どこで見切りをつけて、どこを開放しておくか。何を気にとめて、何をスルーするか。気にとめたものをどこからどういう角度でみるか。近づいたり離れてみたり、方角を変えたり姿勢を変えてみたりして、どれだけ熱心に、どれだけ広い視野で、どれだけ深くみられるか。自分の意思と度量で、いくらでも変わる。豊かな目で人をみて、明るいところに焦点をあわせて、なにかをつくっていけたらいいよな、そう思う。
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