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2012-12-31

年末の戸惑い

例年、プライベートで「今年はこれをやるぞ」と年始に目標を立てることは取り立ててやらずに来ているのだけど、この年末年始はなんだか目標の一つも立てたほうがいいのではないか、という思いがわいたりして。これがどういうことなのか、目標を立てることそっちのけで、ここ数日考えていた。

今年はしばしば、あぁ、幸せだなぁ、ありがたいことだなぁ、きっと今みたいな時間をあの頃は幸せだったなぁとしみじみ振り返る日が来るんだろうなぁとよく思った。街中を歩いているときなど、ふとした瞬間に。

健康に東京の街を歩いて、一人で好きなところに行けて、友だちと会って語らって、会社に行ってお仕事できて、映画を観たり本を読んだり。そういうことに満足と有り難さを感じて、これ以上に何を望むことがあろうかと、よく思った。

これはたぶん良くも悪くもの話で、一方ではもっと渇望感をもって生きたほうがいいんじゃないかって声も、自分の内側にわく。もっとこういうことをしたい、こうなりたいと貪欲に思って、せっかくの環境を120%活かす画策と活動をもっとすべきなんじゃないか。

そんな中で最近は、ある程度エネルギーや時間に余裕がある状態に身をおいている。周囲にサポートが必要となったときにフレキシブルに動ける要員として、自ら忙しくすることはせず、縁あって関わることになった事柄に一つひとつ、自分のエネルギーと時間を注げる状態を良しとしてきた。

私の周りには、本当に余裕なく忙しくしている人がたくさんいる。この人がやらなきゃ誰がやるって仕事。そういう中にエネルギーと時間の余裕をもったつなぎ役がふらっといることは、いろいろと使いようがあるのではないかと思うのだ。私は基本的に、何らかの使命感をもつなり与えられるなりして忙しくしている人たちのサポーター人生を歩んでいるので、その人たちが何かサポートを必要としたときに、少しでも役に立てることがあるように、普段は心を豊かに、時間にも余裕をもって、頭と身体を鍛錬しておくのがいいんじゃないか。そんな思いがある。歳も歳だし。

一方で、もう一歩ぐいっと専門に、前線に、もう一度踏み込んだほうがいいんではないかという思いもわかないではない。歳も経験も言うほど重ねているわけじゃない、とも。抽象的だが、志しはある。その志しを、今は少し持て余しているような気もする。

だから、この節目になにか、いつもは立てない年始の目標を立ててみたいような気にかられるのかもしれない。一方で、いつもどおりで行こうという自分もあって、そんな戸惑いの中にいるのかなぁと思う。

そんなことを書き留めつつ過ぎていく年の暮れ。来年おそらくは、この両方の思いをバランスとって(どっちつかずで)やっていくような気がするんだけど…。あるいは外気に触れて、ある風に吹かれて、どちらかに重心をおくのかもしれない。年始の目標っていうのはこれと書けないけれど、来年もまた日々の振り返りの中で舵取りして、よい案配でやっていけたらいいなと思う。耳をよくすまして行こう。

そんなわけで、来年もあれこれ宙ぶらりんな日和をしたためていくかと思いますが、一つよろしくお願いします。どうか良いお年をお迎えください。

2012-12-28

態度を学ばせる方法

「何かを学習する」というと、まずイメージするのは知識やスキルの獲得だが、「態度」の形成・変容も学習成果の一つに分類される。反抗的な態度を改めるとか、高慢な態度を改めるとか、人に親切な態度をとれるようになるとか、何かを率先して取り組むようになるとか。

いろいろあるだろうけれど、態度の学習においてはとりわけ「自分が学習したい」より「あの人を学習させたい」ニーズが大きいかもしれない。会社の部下とか後輩とか、同業界の若者とか、クライアント先とかパートナー先とか、子どもとか兄弟とか、夫や妻、恋人に対してとか。まぁ相手はいろいろ、態度の種もあれこれ。

しかし、そこに立ちはだかるMcGuireの一言。

説得的コミュニケーションのみを通して態度や価値を獲得・変容させることは不可能であることがわかっている(McGuire,1969)

自分が態度を変える当事者だったら、そりゃそうだわなーという気がするが、人の態度を変えさせたいときには結構くどくど講釈を垂れてしまったり、「何度言ったらわかるんだ」と癇癪を起こしたり。そんな様をネット上だけとってみても、ちらほら見かける。

自分の鬱憤を晴らしたい目的にとどまるならそれも理にかなっているが、相手の態度を変えたい、学習させたいのが主旨なら別の策を練る必要があるかもしれない。「何度言ったところで不可能」とまで言われちゃ仕方ない。じゃあ、どうしたら態度を形成・変容できるのさって方法の代表格が、人間モデリングである。

学習者は多様な人間モデルを観察し、態度を学習することができる

これも言われてみればそりゃそうねーという話なのだが、私たちは親、兄弟、教師、友だち、芸能人やスポーツ選手、科学者や哲学者、アニメや映画の主人公、本の著者、ブログ主など、さまざまな人から影響を受けて自分の態度を形成・変容させてきた。モデルは会ったことがない人でも構わないし、実在しない想像上の人でも構わないことは実体験からもわかる。

では、この人間モデリングの「でなければならない」必要条件とは何か。

・モデルは学習者が尊敬する人物、あるいは一体感を感じられる人物。信頼性があり、力強いと認識されるものである必要
・モデルが個人の行為として望ましい選択を行うところを、学習者が観察する必要
・学習者はその行為を見た後、モデルが自分の行為の結果として喜びや満足を得たことを感じ取る必要
※学習者はその行為の前提条件となる知識・スキルを獲得している必要

つまるところ、誰かに何かの態度を学ばせたいなら、講釈を垂れるよりも、自分が手本となって「こうあるべし」と思うふるまいを10年でも20年でも淡々とやってみせたほうが、望ましい態度変容が得られるのではないかなぁと。

それを相手が、かっこいいなぁ、この人のふるまいは粋だなぁと思えば自然と真似る。逆に、いくらやり続けても、そう思わせることができなければ真似されない。そしてもちろん、講釈は垂れるけどあの人自身はまったく手本になっていないと思われるありさまでは、聞く耳をもってもらえなくても仕方ない。

気の長い話になるし、態度を変えさせたいならまず自分を顧みよという話は時に耳が痛いけど、学ぶ側に立ってみると本質的な策かなぁという気はする。もちろん自分以外の尊敬すべき誰かをモデルに立てて紹介する手段も選択肢の一つになるんだけど。

態度とは「ある対象・人・事象に対する個人的行為の選択に影響を及ぼす内的状態」(Gagne,R.M.,1985)で、「態度は行為に表れるものであるが、行為そのものではない」といわれる。つまり、態度そのものは教えられるものではない。

外部から教えられるのは、態度そのものではなく、態度に影響を及ぼす新しい価値体系だ。ずっと「自分が座席に座れればそれが一番」と思っていたけれど、「人に席を譲るって、なんか気持ちいいな」という新しい価値体系をその人の中に築くこと。その後ろ盾はできる。

しかしそうした価値体系をその人の中に築くには、「年輩の人には席を譲りなさい」と繰り返すばかりでなく(そうする価値を知識として教えることは前提として必要だが)、周囲の人間が座席をすっと譲ってはその人自身が気持ち良さそうにしているのを何度となく目にする環境が必要だ。そして、そのふるまいをみて格好いいなと思い、真似をしてみて気持ちいいなと思い、自分のなかに態度として取り入れていく、それなりに長い時間が必要なんだろうと思う。

参考文献:「インストラクショナルデザインの原理」(著者:ロバート・M. ガニェ、キャサリン・C. ゴラス、ジョン・M. ケラー、 ウォルター・W. ウェイジャー)

2012-12-26

2つの点には3点目を打つ

しばらく前、立て続けに人が「初めて」を「始めて」と、「始める」を「初める」と誤用しているのをネット上で見かけて、いやいや「初めて○○する」「○○を始める」ですよとFacebookのウォール上でプチ共有した。

そうしたらば、

10年ほど前に高校に教育実習に行ったときに、担当の国語の先生から、最近は「始めて〜する」とも言うのですよ、と教えられてびっくりした

とコメントくださる方があった。なんと…。

それでまず思ったのが、自分は義務教育期間に学んだことを、なんて無自覚に絶対視しているんだろうかということ。いやいや、こわい。悔い改めた。とはいえ「これが絶対正しい知識」と、凝り固まって自分の中に沈殿している(が今はそんなふうに教えていない)知識は、これ以外にもたくさんあるんだろうなぁと思われる。ほとんど授業内容覚えていないけど…。

続いて思ったのは、とはいえ長年そうと信じて使ってきた知識、「今はそうとも限らんのです」と言われたところでさっと縁の切れるものでもない。自分の書くのは「初めて」以外に選択のしようがないし、他の人が「始めて」と書くのも「もともとは違うんだけど」といちいち気に止まってしまうもんだなぁと。食ってかかりゃしないが、気に止めないことも難しい。

言葉っていうのは移り変わるもんだからの、人の使う言葉はそれはそれで尊重してさ、自分の使う言葉はそれはそれで、そのまま大切にしてやったらいいんよ。そんな感じで、おばあちゃんがそわそわする子どもをなだめるようにして、その一件はとりあえずの落着。

しかしである。これがしばらくして遠藤周作の小説を読んでいたら、昭和38年の作品に「始めて」が繰り返し出てきて、なんだ、昭和30年代は「始めて」じゃないか、遠藤周作は「始めて」じゃないか、ということに相成った。

そうなると、とたんに凝りがとれて、先日少し無理をして唱えていた気のする「言葉っていうのは移り変わるもんだから」が、100%自分の本物の言葉になる。心がふわっと軽くなる。(まぁ、もう少しそれ以外の事例をいろいろ調べなさいよという話は、それはそれとして)

「私が学んだとき」と「今どき」と、白紙の上に2点しかない状態でものを考えていると、どうしてもその2つが対立関係に見えてきてしまいがち。無意識が、正誤や優劣をつけたがる。けれど、そこでペンを取り「昭和38年」という3点目を打てれば、一気に2点の緊張関係はゆるみ、その関係性は多様に見えるようになる。視界は広がり、心は開放性を帯びるのだ。

2点でものを見ているときに、それに自分で気づいて、3点目を打てるようでありたいなぁと思う。2点しかないと気づくには心の豊かさ、3点目を打つには教養の豊かさが大前提だ。教養って、こういうときにものすごい救いになるんだなぁと、その威力に感じ入った一件であった。

2012-12-16

プレイヤー層の見極め

そのCSS Nite LP25で、今年話題になったレスポンシブWebデザインについても取り上げられた。スマホ・タブレットとデバイスの多様化を受けて、コンテンツ制作者はどういう実装アプローチをとるべきかという観点で、

(1)アクセス端末に応じてCSS(外観)を出し分ける
(2)アクセス端末によってHTMLからして(情報構造も外観も)出し分ける

方法と、2つのアプローチが対比して語られていた(という私的認識…)。一長一短なので案件によって適切な手段を選ぶこと、あと組み合わせ技もありという提案だったかと。

これは「デバイスに応じて、何らかの出し分け策を打つとしたら」という前提で2つ挙げたのだと思うけれど、もう一歩前にもどって「デバイスの多様化にあたって、どう対応するか」を考えると、Appleのサイトのように

(3)アクセス端末が違うからといって、HTMLもCSSも出し分けない

方法も選択肢にあるよなと思ったのだが、あっているだろうか。デバイス多様化への対応策には、大きく3つのアプローチがあるとみてOKなんだろうか。

(1)(2)の出し分けアプローチというのは、ユーザーのアクセス端末に応じた出し分けをコンテンツ制作者が制御しようじゃないかというもので、それが有用なケースももちろんあると思う。スマホ前提のターゲット設定とか企画コンセプトの場合、スマホに最適化した実装方法が必然的に導かれるだろう。

けれど、そうしたケースばかりではないとも思う。どのデバイスからアクセスしてきたユーザーにも同じものを届けられるようにしたい。そのために、これまでPC前提で作られていたサイトを全デバイス対応に見直したい。そういう場合、必ずしも(1)(2)が最善の策とは思えないのだ。

なんとなく思うのだけど、スマホでもタブレットでも不都合なく見せたいという場合、そこの制御を司るプレイヤーの主たるは、コンテンツ制作者より手前の層のほうがいいのではないか。もっとデバイス寄りの作り手が担ったほうが、長期的に統制がとれるのではないかという気がする。

ハードウェア、OS、ブラウザとあって、コンテンツが乗っかる4階層の概念図を頭に思い浮かべると、年間何百と出てくるデバイスの新製品にいちいちコンテンツ制作者層が対応を迫られるのは非現実的で、実際そのすべてに対応しようと考えている制作者も既にないだろう。それでも「あの端末は相当売れたから無視できない」と、売れた実績や今後売れる読みベースでメジャーデバイスごとの対応を迫られるのは、あまりに体力勝負な気がしてしまう。あまり尖った製品とか出てくると「売れるなよぉー」と拝んでしまったりして…。

コンテンツよりもっと、多様化しているデバイスそれ自体の作り手が、各デバイスのOSまわりが1ソースをうまいこと見せる制御(画面の拡大縮小がストレスなくできるとか)をして、ユーザーが自分の使うデバイスの癖を学習してうまいこと見るという対応策のほうが統制がとれることも少なくないのでは。

そういうふうに階層的に役割分担を捉えているから、ハードウェア、OS、ブラウザをも生産するAppleのサイトは、(3)の1ソースを選択しているのではないかと思うのだが、違うだろうか。

外側からざっくりみているだけだから、実際的な状況を把握できていないし、過渡期にはコンテンツ側が頑張らないとどうしようもないという考え方もある気もするし。なんか、書いててこんがらがってきて、まったくおかしなことを自分が言っているような気がしてきたが、とりあえず出してみてご指摘を受けて反省するとしよう。まずは思ったことメモ。

CSS Niteについて

CSS Nite LP25(Shift6)というWeb関連の実務者向けセミナーイベントに行ってきた。土曜13時半から20時までたっぷり使って、各専門分野のキーマンが登壇し、2012年を振り返る。2005年から大小さまざまなセミナーイベントがCSS Niteという名のもとに開催され、今は東京に限らず、さまざまな地域がこのブランドを活用してセミナーイベントを開いている。開催数は300回以上、のべ参加者数は4万人を超える。

主宰の鷹野さんは、司会しているときのあのキャラクターで漠然と認識されている方も少なくないかと思うが(そして実際にお話ししてみても、あのキャラクターに違いないのだが)、参加ターゲットである同志が今このタイミングで何をどんなふうにどれくらい知りたいかというニーズを、セミナーイベントという形に構成立てて落とし込むのが抜群にうまい方だ。

髪の毛の色が明るいし、軽快な話し方をするし、ノリや場の空気を重んじるので、実際以上に軽くみられる向きもあるかもしれない(大きなお世話ですね、すみません…)が、しかし、今きっとこれがみんなに必要と察知してそれをすぐに形にする、その一定規模の場を生み出す力とスピード感、それを継続する力は、そうそう人が真似できることではない。

シリーズ化して回を重ねながらも、偏った集まりになって閉塞してしまうことなく何年も続けられているのは、鷹野さんの思想と技量によるところが大きいと思う。それを支える関係者の力もまた多大ではあるけれども。

こういう場の継続にはつきもののやっかみを受ける時期もあったと思う。それは、「見る人はそう見ればいい」と頭では割り切っても、主宰する人間の心を暴力的に突き刺すものだ。たぶん、そんな思いまでしてやりたくないと放り出したくなったこともあったと思うけれど(妄想です)、結果的にそこで打ち切る選択をせず、またやっかみに敵意を示すこともなく、ただただ健全に続行することを選んだ。そして今があり、昨日の場がある。そういう印象が私にはあって、そういうのは、ほんとなかなかできるものではないと心から敬服する。

2005年から連綿と続くCSS Niteがなかったら。もちろん、それ以外のセミナーや勉強会がいろいろと起こって、あるものはそれがシリーズ化していくこともあったかもしれない。けれど、どんどんさまざまな専門に分化していって、それぞれが専門高度化していくWeb業界にあって、これだけの拡張性をもって新しい登壇者、新しい参加者を取り入れながら場を育てていくことは難しかったのではないか。

その場から人と人のつながりが生まれ、場を外に移してさらに人と人の関係が深まり合って何かが生まれていくことも、これほどの質量ではなかったのではないか。そう思うと、もし2005年からのCSS Niteがなかったらと時計を逆まわししてみて、けっこうなものが失われていくように私には感じられるのだった。

昨日開かれた回も、実に濃密で、主催者・登壇者・関係者の皆さんの意気込みがこちらに伝わってくる場でした。ありがとうございました。しばらくご無沙汰してしまっていたのですが、来年もどうぞよろしくお願いします。

2012-12-10

ニッチな少額決済ストアの興隆

これまで長くインターネット関連のクライアントさんの研修づくりに勤しんできたのだけど、勤める会社の事業領域がそれに限らないこともあって、最近は映像系、ゲーム系のご相談もお受けする機会が出てきている。

この3業界は市場の垣根もなくなっていくのだろうし、私はどの業界もその道の専門家というのではなく、どちらかといえばそれぞれに対応できる、あるいはそれぞれを橋渡しできるように働いていくのがいいんだろうと感じる今日この頃。なので、まずは知識基盤づくりということで、最近はゲームの業界知識や技術知識を得たり、ゲーム開発者のキャリアについてもそもそ調べたりしている。

それで「デジタルゲームの技術」って本を読んでいて面白いなと思ったのが、Unity Asset Storeだ。iTunes Storeみたいな名前で、果たす役割もそれに似ているが、だいぶニッチである。

(素人なりに解説すると)Unityというのはゲームエンジンの一種。ゲームの開発者がマシンに入れて、OSとアプリケーションの間で動かすミドルウェアの集合体みたいなツールだ。ゲームをAndroidとiPhone両方に対応させられる希有なエンジンってことで、ゲーム開発者の間で重宝されているらしい。

これを開発する米Unity Technology社が、Unity Asset Storeというサービスを立ち上げた。これは、Unityユーザーであるゲーム開発者が、自分で作ったアセットを、このStore上で公開して販売もできるプラットフォーム。

Unityを使ってゲームを作ったときにこしらえた建物なんかの3Dモデルや、Unityを使いやすくするために作った拡張機能なんかを切り出したりパッケージングして販売できる。他の人はそれをStore上で購入して、自分のゲームに使うことができる。(以上「デジタルゲームの技術」内の大前広樹さんの解説から)

技術はまったくずぶの素人なので、これがどんなものかこれ以上の解説はしない(できない)けど、こうした特定領域の実務家向けプラットフォームみたいなのは、これからもいろいろ出てくるんだろうなぁと、なんか時代を象徴する感じのサービスだなぁと思った。

教育の世界でも、学校教師が自分で作った補足教材や小テストなんかをネット上で共有・販売できるプラットフォームがあって(TeachersPayTeachers.com)、1億円近く稼いだ教師もいるとかで、この間話題になっていた。

これは純粋にプラットフォームビジネスってことだろうけれど、Unityの例にならって構造を考えるなら、例えば小中高の教科書を出している出版社が、それを使って教えている教師向けに教材売買プラットフォームを立ち上げて、教師が補足教材として作ったプリントや小テストをそこに載っけて販売するって感じになるだろうか。

その出版社の教科書に最適化した小テストであれば、「この問題を間違えた人は、教科書の何ページをみて復習しよう」みたいな超最適化した解説も可能で、そこからデジタル教科書のそのページにハイパーリンクして復習するようなことが展開されるとか、という浅はかな思いつき。

ともあれUnityのように、大道具の開発・提供はある企業が担って、その企業がユーザー向けのプラットフォームを提供して小さな市場を作り、そこに特定業界のユーザーが集まって、その大道具を使うのに役立つ小道具を自作しては、それをストアに載っけて共有したり販売する。そういう少額決済のなんちゃらストアはこれからもいろいろ出てくるのだろうし、それで生計の一部を立てていく生き方もこれから一般的になっていくのかしら、と思ったメモ。

2012-12-08

表面もみること、みせること

名の知れた企業がものを売り込む活動を「いやしいもの」とみる向きは、ちょっと度を超して先入観っぽくなってきていないか不安を覚えることがある。ネット広告の反応に顕著だけど、企業が何か発信すると、「うわっ、売り込み、いやしい」というような反応が、ほとんど条件反射的に返るよう学習されてやしないか。

タイミングが悪い、空気読めてないとかあるのかもしれないけど、世の中いろんな人がいるように、法人にもいろいろある。コミュニケーションの取り方だって人それぞれの性格に依るように、法人にもそれぞれの性格があり、コミュニケーションの得手不得手もある。奥手もあればイケイケドンドンもあって、消費者にしてみれば気の合うものも、生理的に受けつけないものも出てくる。

けど、人間同様に法人も、そういういろいろがあるから世の中は潤い、お互いの協力が意味をなし、世界は前進するのだ。そういう多様性を前提にすると、「あいつは空気読めなくていつもタイミングはずすけど、実は的を射たこと言ってるし、何気にここぞってとき頼りになるよな」という法人の立ち方も成立する。

集団とか社会っていうのはそういうふうに、お互いの表(おもて)面を率先してとらえあおうとしてこそ、創造的につきあえるもんじゃないかって思う。法人も神様じゃないんだから、万人受けの完璧とはいかない前提でつきあっていかないと、お互いを活かしあって補完しあって生きていけない。疲弊しあってどうするのかと。

情報化社会の過渡期じゃ、気の合うもの合わないものいろいろ接触機会が増えるのは必然と思うので、受け手としては気の合わないものには体力使わずスルーして、気の合うもの、これは素敵だわーと思うものに意識を向けて時間を割いていけば、時代に対応した快い暮らしを営めるのではないかと思うのだが。

そうするとけっこうバランスよく気の合う人と法人が分散してつながりあい、本当に市場性のないものは消えていったり変容していったりして、うまいこと治まるのではないかとも楽観的に思うのだが。

とはいえ、こんなものが存在するのは許せん!という正義感が働いて、気は合わないがあえて立ち向かうという人もあるだろうし、とにかく晴らしたい鬱憤を抱え込んでいて、身近な人にあたるわけにいかないから、この広告を肴に晴らすという人もあるかもしれず、それはそれで人の活動として起こるものだなぁとも思う。

ただ、ひとつ気がかりなのが、裏面ばかり論じられる様子が日常風景となった若い人たちがあって、物事の裏面を本当のこととして、表面は建前であって全部偽物だというふうに誤認してしまわないか、ということだ。

実際、中の人に会えば、ものすごい真剣に世の中に貢献したいと思ってものづくりにあたっていたり、開発の人が丹念につくったものを潜在的に欲する人たちにいかに届けるか頭を悩ましていたり、このお客さんならきっとこれ役に立つ!と心から思って販売していたりする人がいるわけでしょう。いや、いるんです。周囲にそんな人いないと思うんだったら、つきあう人変えたほうがいいのでは?と思うほどたくさんいる(そういうモチベーションの人一辺倒の企業がいい企業とも思わないが)。

で、買い手にしても、実際それを買って己の生活が豊かになったり、何かの問題が解決してすっきりしたりしているわけでしょう。当たり前になると、生活に組み込まれちゃって意識にのぼってきづらいけど、それがなかったときに比べて、ずいぶん気持ちいい生活ができている。

それ、その人たちの力がなかったら、そんなにうまいこと手に入らなかったわけで、いろんな人の作ったもの、届けてくれたものに支えられて暮らしを営んでいるのが実際。それは、意識の上ではいやしいと反射的に思っているかもしれない企業活動の表面の力に支えられている。

裏面をみるなというんじゃないし、裏面もそれはそれであると知っていていいと思うし、時に糾弾するのもいいと思うけれど、表面もそれはそれできちんとあるものとして見られるように、自分の意識を健全に保っておくことってすごく大事だと思う。表面をないものと見たり、全部嘘だと見えるようになってきたら、それはちょっと偏狭というか、短絡的にものを見ていないか内省する必要があるなと。

昔、ドイツに旅行に向かうときに飛行機で隣り合わせた男の子と、ひょんなことから経由地の韓国までずっとおしゃべりをしたことがあって。当時27歳だった私は、仕事の話を多くした。学校を出たばかりという彼は、どうもサラリーマンというのをひとくくりに、ひどくくたびれた創造的でない仕事をする人とみているふうがあって、私は自分がすごく仕事を楽しんでいて、私の周りにもそういう人がたくさんいることを話した。話の終わりに彼が「仕事が楽しいって言う人に生まれて初めて会った」と言っていたのが印象的で、今も時々思い出す。

社会のすべてが薄汚れているわけじゃないし、そこら中の大人がくたびれているわけじゃないし、広告のすべてがいいように消費者をだましているわけじゃないし、サラリーマンのすべてが上司にへつらってお金のためだけに仕事してるわけじゃない。そういうこと、社会の表面を、もっときちんとみて、もっとみせていかなきゃ、と思ったりする。

2012-12-03

イヤホンすると腰が重くなる

近所の喫茶店で本を読んでいると、杖をついたおじいさんと、ほか数人のおじさまグループが店内へやってきた。1階席は概ね埋まっており、カウンター席がちらほらあいている程度。2階もあるが、杖では階段を上がるのが大変。客「エレベーターは?」、店員「ないんですよ…」という背後のやりとりで事情を察し、「こちらどうぞ」と席を譲る。

ありがたがられるが、「そもそも一人で来て四人席に座ってるなよ」という話で、自分で自分に脳内突っ込み入れつつ、「いや、来た時にはすいてたんですよ」と脳内言い訳しつつ、「まぁまぁ、いいじゃないですか、混んできたらすぐ退いたんだし」と脳内仲裁しつつ、そそくさとカウンター席へ移動。まぁとにかく機動力は認めてやろう。

しばらく読書して、店を出て電車に乗る。一駅行ったところで人が空いたので席に座る。が、降りる客も多かったが、乗ってくる客も多かった。足もとがおぼつかない様子のおばあさんが乗ってきたのですぐ席を立つ。「どうぞ」と声をかけると、おばあさんと、娘さんらしき女性に礼を言われ、あぁよかったと気分も快く。

またしばらくするとだいぶ車内がすいたので、再び席に座る。イヤホンをしてiPhoneから何か聞き出す。次の駅で、お年を召した方が乗ってくるが、すっと腰が上がらない。別段、今日はもう2回譲ったからもういいだろうというような回数上限的な意識もなく、別段座っていたいーと切願するような体の疲れもなく。

なのに、二度できたことがなぜできない。むしろ、二度やったことを三度目踏みとどまるほうが難しいのが人の常ではないか…。先ほどまでとあきらかに身のこなしが違う自分にとまどう。どこ行った、善良な市民。

それで思い当たったのが、イヤホンだった。いや、別に自分のなっていないのをイヤホンのせいにする気はないのだが、イヤホンをしていると腰がすっと上がらない。言葉がすっと出てこない。いや、もっと手前の段階で何かが動いていない。それはそれで、自分を探ってみたところの結論として疑いようがないのだった。

イヤホンしていないときと比べて、しているときは世の中と自分の間に一枚壁がはさまっている感じがする。自分が膜に覆われている感じというのか、世の中から遮断されている感じというのか。感覚的にそうなると概念的にも、ちょっと世の中のことが我がごとと一線を画す感じになる。それこそがいいときも、もちろんあるのだが。

世の中の情報をすっと、通常のスピード感で摂取できていない感じ。摂取した世の中の情報から次の行動につなげる判断のスピードも、おそろしく鈍っている。その上、判断の鈍さが影響して、判断自体が行動を起こさないほうへと変わってしまう、やりすごしてしまう。世の中に対する機動力の鈍化を体感。

日常五感から情報を汲み取って働いている力っていうのは、何気ないようでものすごいパワフルなもんだなぁと感心してしまった。いろんなことを察知して、判断につなげて、すぐ腰をあげたり、声を発したり。それって、何か単体で感覚器が動いているんじゃなくて、たぶん全体で感じ取って全体でうまいこと動いているんだなぁと。

イヤホン批判をしたいわけではまったくないし、今後もイヤホンにはお世話になり続けると思うけれど、ちょっと意識してバランスとってつきあおうと思った。

2012-12-01

あと100回会えそうな人

夜中に目を覚まし、残りの人生であと100回会えそうな人は誰だろうかと疑問が浮かぶ。考えてみると、一番確率高そうなのは会社の人であった。これはまずまずいけるのではないか。あとはなかなか見込みがたたないが…。

私の尺はどうも「もって59歳まで」と、母親がその歳で亡くなって以来定着してしまっている。それでいくと、長くてあと23年の人生だ。春夏秋冬で会えている友だちというのは、この年になるとまずまず会えているほうだと言えるが、それでも年4回となると、4回×23年で、あと92回。100回に満たない。

「92回」というと、まずまず会えるかという気がしないでもないが、「人生で92回」となると、なんとなく乏しい数字にみえてくる。36歳という現在地からみれば十分なんだろうか。

しかし、年4回も会えている人というのはまれで、1年に1回くらいは会えているかなという友人もいれば、久しぶりねぇといって数えてみたら数年ぶり、十数年ぶりという人も少なくない。のだから、やっぱり長く生きたものだ。この間仕事の書類で、来年は平成25年という数字をみて、平成になってから四半世紀か…とたまげた。

そういえば少し前に、大きな病気をして大変な思いをした友人が、遠方から東京に来る際、ぜひ会っておきたいと声をかけてくれたっけ。ありがたかったし、かけがえのない時間だと思った。

マルチデバイス対応っていうのが一つのリッチネスの方向だとして、もう一方に対極のリッチネスが存在するとしたら、それはノンデバイス、デバイス無しってことになるのかな。人に直接会う、ものに直接触れてそのものを体験する。

そんなことをぽこぽこ思いながら、またいつの間にか眠りにつき、なぜか外国で震度7の地震に遭う夢をみて、夜が明ける。今日は、父の誕生日会と快気祝いをかねたお食事会を催しに、実家へと向かう。

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