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2012-11-27

全体をまるっとみる

小林秀雄さんの講演録「文学の雑感」をiPhoneに入れて、会社帰りの電車の中なんかでときどき聞いている。なんともいえない、おいちゃん語りがなかなか味わい深くてよいのだが、好きな話の一つに「クスリについて」というのがある。

お知り合いに武田製薬の研究所所長を務めていらした方がいて、その方から聞いたという話を語る。漢方にも科学にも通じた方だったそう。ざっと、こんなお話だ。

にんじんは昔、おなかの薬だった。いろんなものに効くから今じゃ万能薬になっちゃったけど、もともとはおなかの薬だった。おなかがくだったときは、にんじんをのむと止まった。便秘のときも、にんじんをのむと通じがついた。両方に効く、大変便利な薬だった。

にんじんを分析すると、くだりを止めるエレメントも、通じをつかすエレメントも、きちんと出てくる。それを、今のやり方だと、にんじんの中にある2つのエレメントを抽出して、あとは何にも効かないからって捨てちゃうんだ。そして、抽出したエレメントをそれぞれ丸薬に混ぜて、下痢止めと便秘薬をつくる。

昔はそうじゃなくて、おなかが痛くなると、一つでのませていたんだ。どっちのエレメントを選択するか、決めるのは誰か。僕らの体だ。おなかがくだったとき、止めた方がいいかもしれないし、自然現象なんだからそのままにしておいた方がいいかもしれない。どっちのエレメントをとった方が僕の体に有効か、それは体が判断した。

現代は、その判断をとっちゃったんだ。効かないといって捨てた中に、僕らを選択させるなんらかのエレメントがあるに違いない。

こうした説を熱っぽく語るのを、耳をすまして聞く。そして思う。私たちは何ごとかを捉えるとき、特徴的な、明示的なエレメントというのを抽出する。あとは捨てる、あるいは見ない、注目しない、気にとめない。そういう態度を当たり前のものにして、どんどんそちらに傾斜していっていないか。

何かを理解したり評価する方法には、確かに「要素を分解して一つひとつのエレメントを仔細に調べる」ということがあると思う。けれど、その主要エレメントを一通り理解したら、その総体は理解しきれたことになるだろうか。そう考えると、どうも抜け落ちたものがある気がしてならない。

何か大事なものを、いろんなところで見落としていっているのではないか。要素と要素をつないでいるもの、要素と要素の間に好循環をもたらしているもの、今この事案でどちらの要素を使うべきかを判断して送り出しているもの、今は控えるべき要素を判断して留まらせているもの、これという名前をもたぬまま総体を総体として成り立たせているもの。

そういうのって、たぶん、組織やチームのなかのメンバー構成にもあるんだろうし、○○職に必要な能力みたいな考え方にも言えるんだろうなぁと思う。特徴的で、明示的な職種名をもっているわけではないけれど、その組織にいつも好循環をもたらしている人というのは各所にいるものだ。

「社会人としての基礎的能力」とか、「○○職に必須の○○力10選」みたいなものも、それをエレメントとして一通りものにしたら一丁上がりなのかっていうと、どうもそうでもなさそうではないか。

なんでなんだろうってきな臭さの原因をあたってみると、それって「工場のものづくり」発想だからだなぁって思った。人の深淵さを思うと、いやぁ、そういうんじゃ、造れないんじゃないの?と思ってしまう。どこかで破綻して、肝心なときにこそぶっ壊れる危うさがある。果たしてそうなったとき、部品の入れ替えで対応しうるのか。

構成要素を分解してみたらゴツゴツしているけれど、総体として捉えるとすこぶるバランスがよいことってある。そういう価値を認められる力をもっているのが、人間だとも思う。そういう人が集団を形成して人数以上の力を発揮できるのが、人間だとも思う。せっかくそんな力をもっているんだから、もっと総体としてとらえるってことも、意識のなかにバランスよく取り入れたほうが、豊かになれる気がする。

というか、そもそも総体としてみるのが基本にあって、それをより深く知って伸ばしたり活用するために、一時的に要素分解して捉える必要が生まれたのではなかったのか。

社会生活を営む上で、あるいはある組織に属したり、ある仕事に携わるのに最低限押さえたいスペックというのは、それはそれであるだろう。けれど、放っておくとだんだん、すべての要素、あるいは自分の強い要素にばかり偏って、人に高スペックを望みはじめたりする。

個人をみるときも、集団をみるときも、全体を見つめることを大事にしたい。解体したら、もとに戻す。もとに戻して、全体が見られるところまで戻っていって、そこから全体をまるっと眺めてみる。たぶん、そこにはエレメント単体の善し悪しだけでははかりしれない力学が働いていると思う。その総体としての価値や魅力や可能性を感じ取ったり、考えたりする時間と空間と、心の余裕をもっていたい。

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