想定外を想定内に
「利用されている感じがする」を読んで、ぐっとくる。
人間は十把一絡げにされることを嫌う。「何々とはこういうものだ」とくくられると、自分がくくられた側にいる場合、嫌悪や反発を覚える。なんて、これもまた「十把一絡げにもの言ってる」と言えなくもないのだが…。
この嫌悪感はどこから来るのだろうと考えてみる。私は十把一絡げにとらえられるものじゃない!という認識が、生まれもってそれぞれの根底にあるのだろうか。これまで出会ってきた人は実に多様であったし、自分もまた多様なうちの一つだと感じるし、一緒くたに見るなんて粗雑で不当な扱いだと経験が語るのだろうか。
自分のことはそう思っているのに、人のことは十把一絡げにどうにかしよう、どうにかできると思ってしまうのは、浅はかなことだ。
それでも、ある局面では十把一絡げにものを考えなきゃいけないときがある。ターゲットがどういう特徴をもつ人たちで、それに対応させると、こういうプロダクトがいいのではないか、こういうコミュニケーションを働きかけていくのがいいのではないか。
そんなふうに、仕事場面ではある特定のターゲットの特徴を洗い出して、ある意味十把一絡げに人を語る。そこにきちんと、絞り込んだターゲット向けの価値が生まれれば、それは狙いどおり、とても有意義なことだ。
だから、それが仕事場面のものの考え方として普及しているのはもっともだし、私も学習者をとらえるときには存分に活用している。とすると、そうしたデザインをするときに大事なのは、十把一絡げに人を語りながら、「その人たちのことを決して言いきれていない」という自覚を頭においておくことなんだろうな、と思う。
言葉の力は強いので、「ターゲットはこういう人たちです」と表現してしまうと、頭の中でそういう人に単純化されていく。さらに、関係者間で認識をあわせようとターゲット像を語り合っていくと、ターゲットの「そうではないところ」がどんどん死角に入りやすいんだと思う。
死角に入れて単純化することには、もちろんプラス面もある。そのプラス面を活かしたさまざまなアプローチが、有効なデザイン手法として各所で語られているのだと思う。でも、あらゆることにはプラス面とマイナス面がある。マイナス面も頭においてプラス面を活かすのが本当だ。
「言いきれていない」という認識が片隅にあるかないかで、デザインの仕上がりってだいぶ違う気がする。相手が、一つの刺激を受けて多様な反応を示すということ。共感することもあれば、反発心を覚えることもあること。すでにもっている知識や経験と関連づけて、自分の想定外のことに思いをはせたり、行動につなげることもあること。いろんな発想があって、いろんな創造につながりうること。そういう能力をもった人間を相手にしているという当たり前のこと。
決して、何も独自の加工をせず、こちらが与えたものをそのまま取り込んで、こちらの想定どおり反応するわけじゃないという前提をもって設計したい。相手先に届いて、その手元で広がる可能性の世界まで視野に入れて設計したい。
相手が刺激を受け取り、自分の中で独自の解釈をして、こちらの想定外に発展させることを想定内に含める、というのは、ものすごく大事なことだと思う。そういう相手に対する敬重が前提にあれば、「利用されている感じがする」は少なくとも軽減できるのではないか。
クライアントの事業上の目的を達成するために「ターゲットをどう利用するか」という視座に立っていないか。クライアントの経営理念や社会的ミッションを見上げて「ターゲットの生活をいかに豊かにするか」という視座に立てているか。私は私なりに、いつも学習者の可能性の世界を大事にして設計をしていきたいと思う。
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