受け手がコンテンツをリニア化する時代
田端信太郎さんの「MEDIA MAKERS」を読んでいる。田端さんはTwitterやFacebook、ブログなどの情報発信や論考を通じて一方的に存じ上げる方だが、私のなかでは「当代随一の真正なメディア業界人」という印象。メディア業界での第一線の経験を伴って、これほど現代のメディア変化について本質的なことを分かりやすく腑に落ちるように伝えられる人はいないのではないか。
私はメディア業界人ではないし、この個人ブログも本の中で定義されているメディアの位置づけとは趣を異にするので、メディアの発信者という立場ではない。が、この時代に生きるメディアの1受信者として思ったことを書き留める。
本の中に、コンテンツのノンリニア化に関する言及がある。まずリニアなコンテンツって何かというと、「初めから終わりまで一直線に連続した形で見てもらえることを想定したコンテンツのこと」とある。代表例に「映画」や「長編小説」を挙げている。で、その反対の「ノンリニア化」が進んでいるという話。本のもとになった記事がここにあるので良かったら(アドタイの記事へ)。
田端さんは、デジタル化やスマホ化、ソーシャル化の進展が、コンテンツのあり方を「ノンリニア」さらには「マイクロ・コンテンツ化」のほうへと変える「引力」が働いていると言う。抗いようのない時代の力のようなものを「引力」として表したところにうなる。そして確かに、私たちはデジタル化やスマホ化、ソーシャル化によって情報・コンテンツを細切れに摂取するようになっているという実感がある。
で、受け手である私は思うのだ。私たちは「ノンリニア化」の引力が働く時代に生きている。が、その時代性よりももっと根源的なところで、人間は時間軸にのっかって一方向に進む「リニアな世界観」の中に生きている。という枠組みでとらえると、私たちは日々摂取するコンテンツを、それがリニアであろうとノンリニアであろうと、自分の中に取り入れるときリニアなコンテンツとして受け取らざるをえないのではないか。
メディアが台頭して以来これまでは「その道のプロによってリニア化されたコンテンツを摂取し、そのリニア化作業はプロの手に委ねられていた」のが、これからは「ノンリニアなマイクロ・コンテンツを細切れに摂取し、それを自分の手元でリニア化作業していくことになる」。望むと望まざるとに関わらず、どうできるかできぬかに関わらず。できなければ、それは細切れのままに眠る。
例えば、ある日mixiの動向、ある日Twitterの動向、ある日Facebookの動向が耳に届いたとする。日々細切れの情報を摂取するなかで、それを一つのソーシャルメディアの潮流として捉える受け手もいれば、それぞれの動向の差異に着目する人もいれば、ばらばらのマイクロ・コンテンツとしてつまみ食いするだけに終わる受け手もいるのだ。
あらゆる専門分野で高レベルのリニア化作業を自ら行うことは現実的でないだろうが、この時代変化を受けて、1受信者として思うのは、日々摂取していくマイクロ・コンテンツを、より豊かな線をえがいて、その線上に配置し、自分の中でリニア化して味わっていけたらなぁということ。
そう思うとき、「豊かに線をえがける人がリニア化してくれたコンテンツを能動的に摂取していくこと」の尊さを、前時代以上に感じてしまう。映画でも、小説でも、日常のなかで織りなす人の話でも、さまざまなリニアコンテンツに触れる度に思うことだが、世の中には自分には遠く及ばない豊かな線をえがく人たちがわんさかいるのだ。そういう人の生み出すリニアコンテンツに触れ味わう機会を、大切にしていきたい。
私が最近、映画やら本やらを欲する背景には、いろんな人の創り出したリニアコンテンツに触れて、自分のなかで豊かな線をえがく力を育んでいかねばという危機感があったのかもしれない、と思った。
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