私のふつう
仕事関係で共通の知り合いも多く、いつからかTwitterでフォローしあっていたもののお会いしたことのなかった方と、先日初対面する機会があった。このブログを気に入ってくださっているマニアックな…もとい奇特な方で、書き手としてはありがたい限りだ。
おしゃべりする中で、その方がこんな話をしてくれた。このブログは、実際には起こらなかったこととか、私が実際にはやらなかったことが書かれている。実際に起こったことや、私が言ったことやったことと同等か、それ以上の分量を割いて、実際には起こらなかったこと、やらなかったこと、それを通じて内省したことなんかが書かれているのが面白い。そういうのってメタ的にそれをみていないと書けないし(というようなこと、たぶん…)。
これが私にしてみると、へぇそんなふうに思いながら読んでいるのかーと興味深かった。メタ的にとらえやすい性向は把握していたけど、そういう文章の分類とか量って意識したことがなかった(実は分量についてその場で言及していたかは曖昧なのだが…)。
そんな感想をいただいて、私はこんなようなことを応えていた。私の内界、つまり自分の皮膚より内側の世界というのは、確かに外界より圧倒的に狭く小さい。自然科学的な体積でみたら、外界(つまり自分の皮膚より外側の、果ては宇宙までの世界)のほうが圧倒的に広く大きい。
けれど、私の主観的な感覚でいったら、内界と外界の体積は同等くらいに感じながら普段過ごしている。だから、ブログに書いている内容もそれを反映して、ふつうに書いていると、自分の内界と外界の話が同等くらいに出てくるのではないか。しかも外界のことはなかなか、人に配慮すると書けないことも多いので、私の内界に起こった思索、内省、妄想のあれこれのほうが若干量が多くなるのかもしれない。
そんな私の内界と外界の感覚を、その方は不思議な生き物をみるように聴いていた(笑)。これはなかなか興味深かった。みんなそれぞれに「私のふつう」っていうのをもっていて、話さなきゃそれが他の人にとってもふつうだと思っているんだけど、実は全然違ったりする。そういうのが、こういうふうにあらわになっていくおしゃべりって、たのしいなぁと思うんだ。
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