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2012-10-06

男親というもの

父が手術をするため短期間の入院。手術は無事終わり、ひと息ついたところ。父はこれまで大きな病気も怪我もしたことがなく(あるいは認めず)、病院とは見舞いに行くところだと思って60何年も生きてきた人だ。病気にまつわる複雑な思いを別にして、「病院」にかかることだけとっても当惑があるようだ。

私は私で、父の病気にまつわる私自身の複雑な思いを別にして、父のこの辺の当惑をどう軽減させるかだけでも、日々思うところがある。娘が父親をサポートするという図式は、どうも特有のセンシティブな揺らぎを伴うもののようで、同じ親でも母親のときとはまるで別物として事にあたっている。

例えば入院前、病院へ診察や検査に行くのでも、父はどの用件でも毎度ついて来られるのは嫌なのだ。現役でやっている子どもたちに迷惑をかけたくないという気持ち、それは子どもたちを思ってというより、自分がそういう存在になるということが自分の中で許せないという感覚のほうが強いのではないか。こうした気持ちはおそらく、母親のそれとは別の種類のものではないかと感じる。

だから、そこで子どもらが「いいんだよ、迷惑でもなんでもないんだから」と言ったところで問題は解決されない。どころか、むしろそんな言葉を娘っこにかけられるのは屈辱的ですらあるかもしれない。

一方で、入院する日や検査の結果をきく日に子どもらが仕事を休んで一緒についてきたり、兄が車を出して病院に荷物を運んだりといったことは、父にとって嬉しいことであり、大いに気持ちの支えにもなっているように見える。

「加減」の見極めが肝要なのであり、やりすぎも不快なら、やらなすぎも不安という男親の胸のうち。これをくんで、いかにしれっとよい加減で支えられるか。私はそういうところのバランサーとしてしか役に立たないといっても過言ではないので(特に車の運転ができないのが痛い…)、そこだけは自分のフルパワーで慎重に父の気持ちを汲み取り、兄や妹、親戚との連絡役を務めている。

それにしたって失敗はある。手術を終えたときも、私が病室の隅に腰かけている時間が5分長過ぎたために、もう帰れよ、明日明後日も寝てるだけなんだから見舞いに来るなよと念を押されて出てきた…。

せっかく来てあげたのにと腹を立てるほど子どもじゃないが、むしろそういう言葉をはかせるまで腰をおろしていた自分の去るタイミングの悪さに自己嫌悪した。こういう言葉は、口にした側の心のほうが痛んでいるだろう。あと5分早く腰をあげていれば、父にそんな言葉をはかせることもなかった。

5分早く退室していれば、看護師に世話されるところに娘が居合わせるということはなかった。父はそれを娘に見られたくなかったのだ。私はそれを見られたくないだろうなと思ったので、視線をはずしていたけれど、見ないことではなく同室にいないことが大事だったのであり、5分前に帰ることを選べずとも、すくっと席を立って「はずしますね」と部屋を出れば良かったのだ。

そんなこんなで、まだまだだなと落ち込みつつ、そんな反省が自分の成長にもなっており、親からはいつまでも学びの機会を与えられるものだ、と勝手に納得して自分を許している…。

どこまでどんなふうにサポートするのがいいかというのは、その時々の置かれた状況にもよるので、一様にこれと語れるものではない。ただ、できるだけ父が、まぁここまでは子どもの世話になるのも仕方ないか…と妥協した領域を都度感じ取って、その一線を越えない絶妙なラインを保ってサポートができればいいなと思う。

本人が、今回はちょっと一緒に来てもらったほうがいいなとか、これは一緒に話を聴いてくれたほうが安心だなと内心思ったところで、しれっと一緒に行く気でいる娘が隣にいる状態がベストであり、頼まずとも事は自然とそうなっているという感じをいかに絶妙につくれるか。とまぁ、男親の心の揺らぎみたいなものを学ばせてもらいながら、ほどほどにちょっかいを出している。

父の病気にまつわる私自身の複雑な思いは、またいずれ改めて文字にしたい。

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