個人情報とひざ小僧
1990年、ある町の女子高生の会話。
A子「今日、出がけにおばあちゃんに怒られちゃったよ。なに、その短い丈のスカートは!って」
B子「えぇ、それでー。超フツーじゃん。ミニでもなんでもないじゃん」
A子「でしょー。おばあちゃん的には、ひざ小僧が出てるのが気に食わないらしい」
B子「なにそれー。やめてほしいよねぇ、自分の時代感覚を私たちに押しつけるのっ」
A子「まったくだわ。これくらいの丈だったらお母さんだって履いてるっつうの」
2030年、ある町の男子高生の会話。
A太「今日、出がけにじいちゃんに怒られちゃったよ。なに、Soulbook(Facebookの進化版)にうちの住所とか電話番号垂れ流してるんだ!って」
B太「えぇ、そんなんでー。超フツーじゃん。垂れ流しでもなんでもないじゃん」
A太「だろー。じいちゃん的には、個人情報が出てるのが気に食わないらしい」
B太「なにそれー。やめてほしいよなぁ、自分の時代感覚を俺たちに押しつけるのっ」
A太「まったくだよ。これくらいの情報だったら父さんだって公開してるっつうの」
なんてなったりして、と妄想した。
ちょっと前までハローページに個人宅載せるのも当たり前だったし。世の中の常識は時代によって変わるってこと、自分もなんらかの時代感覚を身につけて生きているってこと、それは生まれが20、30年ずれた時代の人と異なることが大いに想定されること、わきまえておかないと老害になりかねない。
個人情報の一切合切を情報開示っていうのが普通の感覚にはならないとしても、「何の情報まで出すのは普通」とか「誰それまで開示するのは普通」とかは時代感覚によってさまざまだろうし。地域の文化によっても、個々人によっても違うだろうし。
個人情報の開示にナイーブになるって方向自体は、流れとして変わらないんじゃないのってあるかもしれないけど、法整備が進んで、取り締まり体制も整って、本人の望まない漏洩が発生していることを検知して個別通知するロボット「コンドル」も稼働して、教育面も国際教科書センター(ITC)のWebサイトで「個人情報について」って教育コンテンツが配布されて個人のリテラシーもあがって、ある程度安心して扱える環境が整ったところに生まれてきたら、また見え方は違うかもしれない。
何それの個人情報が誰それまで出ているという事象に、「開示」という言葉をあてるか「漏洩」という言葉をあてるか、それは結局当人の意図にそぐうかどうかってことか。事象の捉え方は一様でないなら、ここしばらくはふわふわっとした気持ちで時代感覚の変化を見つめていきたい。比較的おばちゃん寄りの私としては…。おばちゃんと言いきるのはもう少し待たれ。
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