分けて戻って
心とからだっていうのは、なんとなく対照的なイメージがある。この2つの言葉を頭に思い浮かべると、知らず知らず対置させてしまう。けれど、谷川俊太郎さんの「ひとり暮らし」というエッセイに、
心とからだはただことばの上で区別されるだけで、本来はひとつのものだ。
とあって、ですよねぇと我に返る思いがした。少し前に読んだ「日本の文脈」でも、内田樹さんがこんな話をしていた。
どうしても人間は自分のからだを同心円的に把握しますよね。中心に心というか自我、主体があって、そのまわりに骨格や筋肉という生物学的な器官が外付けされていて、そのさらに外側には他者がいて、社会関係があって……というふうに図像的に理解しているでしょう。
「でも」と続いて…
主体という中心なんか存在しないんです。あるのは精密な関係の網の目だけで。
これまた、そう言われてみると…と思った。
私たちは、例えば「人間」のようなちょっと複雑そうなものを理解しようとするとき、それそのものをまるっと観るだけじゃ不足感があって、それを分解して観ようとする。いくつかの構成要素に分けて、分けたそれぞれの特徴を分析してみたりして。そして、その一つひとつに名前をつけて定義を設けて、その言葉をつかって人と議論をしたり、実用的に役立てようとしたりする。実際それはいろんな分野で役に立っているわけで、分解して踏み込んでみるって有意義なことだねっていう大方の合意がある。
でも、ばらして分解したものは、またひとまとまりに戻せるようにしておかないとなって思った。「心」と「からだ」、分けてとらえるのが普通になってしまうと、逆にそれを一個体としてみることがなかなかできなくなってしまう。その双方に、自然とピントをあわせ直して行ったり来たりできるのが理想だと思うんだけど、けっこうできていないもの。パーツについて深堀りしていくうち、そっちで焦点が固まってしまって、全体を見る焦点のあわせ方を忘れてしまっている、というのに自分で気づくのはなかなか難しそうだ。
Web業界の発展にともなう職能の専門高度化→職種分化みたいな話も、いくら職種分化しようと、まず「そのプロジェクトの一員として果たすべきこと」みたいな前提を見失わないようにしないと、仕事に貢献するどころか自分の役割分担とか職種定義にこだわって足引っ張る人になりかねない。
会社員というくくりでみても、どこ部署のミッションとか、私の今期の目標はこれだとかいうところだけに焦点化していては、部署に分化する前の「その会社の一社員としてやるべきこと」に対して逆走した行いをしていたりする。
あるものを細かく分けて、それぞれをじっくり観察したり分析したり、人と議論したり実用に役立てるのは大変有意義なことに違いないけど、分けた後はまた全体をひとまとまりに見られるようにしておくって大事なことだなーと思った。その視点の切り替えを、自然に当たり前にできるようにしておくっていうのが大事だなーと思った。
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