「言えないコトバ」
このところのあれこれで手元のメモに反省文とかなんだとかいろいろ書き過ぎてヘトヘトになってしまったので、そろそろ気晴らしに…と笑える本を手にとった。益田ミリの「言えないコトバ」というコミックエッセイ集。これが面白かった。ツボだった。書き出しに、
口に出しているコトバよりも、あえて口に出していないコトバのほうが、その人物を知ることができるんじゃないだろうか?
とあるんだけど、確かに一理あるかもと思う。というのは、やはり私も「あえて口に出していないコトバ」がけっこうあるからなんだけど。上のは言い過ぎとしても、「あえて口に出していないコトバ」は、その人があえてそれについて語らない限りたいていわからないままなので、わかりづらい分興味深い。
これがまぁ、著者と年齢が近いこともあってか、「言えないコトバ」がものすごい勢いでかぶっていた。
チャリに原チャリ、カフェ、スイーツ、フィー、リスペクト、ハッピー…、基本的にカタカナっぽいものは、気恥ずかしさから使えない。あ、チャリは気恥ずかしさとは違うか。やっぱりなんとなく、自転車、原付バイク、喫茶店、デザートとんで「甘いもの」、○○料、尊敬、幸せと言ったほうが落ち着く。しっくりくる。人が使うのには特に引っかかりも覚えないけど、自分が使うにはこそばゆくていけない。
しかし、「言えないコトバ」というのは、何も気恥ずかしさに起因するものばかりではない。「あえて言わないコトバ」もあるわけで、人に対して使う「痛い」「寒い」「つかえない」とかはその類いの代表格だ。こうしたものの一つひとつ、使われるシーンのえがき方がまた絶妙なのだけど、これに触れる著者の話にも共感するものが多い。
以前は、「気がきかない人」とか「段取りが悪い人」とか「要領の悪い人」くらいで済んでいた感情なのに、それが「つかえない人」という表現に切り替わったとたん、そこにはひんやりとした暗さが宿る。たとえ、苛立ちに任せて口にしているだけであっても、こういうコトバを使いつづけていると、それが自分の考え方として沈殿してしまうのではないか。
「使う言葉が人をつくる」部分はたぶんにあると思っているので、何を言って何を言わないか、それをどう言い表すかは大事にして暮らしている。
これも話のなかに出てくるけれど、たとえば「しばらく入院してたもので」と言われたとき、「どうしたんですか?」とか「どこが悪かったんですか?」と返さず、「今は、お加減いかがなんですか?」と返す、そういう静かな心配りを当たり前にもっていたい。
あと、これは書かれていなかったけど、私はトイレって言うのが苦手で、お手洗いという。「お手洗いはどちらですか」というふうに、もうかれこれ何十年も言っている気がするけど、これは、つまり、単純に日本語が好きなだけかもしれない。まぁ、ともあれ、いい気分転換になりました。
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