「例外」を語りあう会
この間、ちょっと意を決して、「36歳からの女の人生」という飲み会を開きたいと、Facebookのウォールに「友だち」の範囲で書き込んだら、なんと20数名の方が「いいね!」を押してくれて、数名の方は参加表明や賛同コメントを残してくれた。
思った以上に反応いただけて、えぇ、そうなんだ、そういう集いに関心をもたれる方ってけっこういるものなんだなぁと驚いた。関心をもった背景もまた、人それぞれなんだろうと思うと、そこから話を聴いてみたい。男性も女性もバランスよく反応があったのも興味深いし、既婚未婚やお子さんのある方ない方によってもいろいろ見える風景が違うんだろうし。もちろん、人それぞれに価値観や指向するところも違うと思うので、その辺もじっくり聴いてみたい。
「36歳からの女の人生」という飲み会を開きたい。参加資格:36歳から(60歳くらいまで)の女の人生について一家言ある方、あるいは人の一家言を聞きたい方、あるいは聞かれればなんかもってそうだと思う方。年齢・性別問わず、常識人から異端児まで幅広く歓迎。最低施行人数2人。
と書き込んだのだけど、「参加資格」は気分で書いた割りに、こういう感じで開きたいのです、という意思がけっこう切実に埋め込まれている気がする(のは私だけかもしれないが)。
どうも「女」とつく会のイメージが、ものすごく鼻息のあらい女性が「立ち上がれ、乙女たち!」とか叫んでいる絵になってしまって(偏見です)、いや、そっち系じゃないんです、ただ部屋の隅っこで、だよねぇ、そうなのかー、へぇとか言いながら、冷や奴とか茄子のおひたしとか野菜の焚き合わせとかつついて飲み語らいたいだけなんです、と。
1対多で、何か体系立てたモデルや基準を共有する場も有意義だけど、それと同等に、対極の集いも大事だと思うのです。話散らかってなんぼという集いも。だって自分ごとというのはたいていの場合、汎用的なモデルや基準の「例外」でしょう。ユングの言葉にこんなのがあって、そのとおりだなって思う。
Every individual is an exception to the rule.(すべての人は例外である。)
モデルや基準というのは、いろんな人のいろんな事情を削って構築されている。それは抽象化して汎用化してこそ意味があるのだし、そうすることによって多くの人が恩恵を受けられるようになる。
個々の事情を見さだめて削ぎ落し、汎用的なモデルや基準を提唱してくれる人があるから、それに同意したり反発を覚えたり、カスタマイズしたり真逆の方向に駆け出したりと、引き出される反応がなんであれ、自分の事案を一歩踏み込んで考えられる。
一方で、仕事の進め方にしても「でも今回の案件では」「でもこのお客さんの場合」が出てくるように、人のキャリアとか人生にしても「でも私の場合」がつきものなのだ。というか、人の生きる道なんて、モデルや基準と照らしてみて例外的な要素があるのが前提であって、「私には例外的な要素がまるでない、まったく基準にのっとった人生だ」というのは、むしろそのほうが例外的だと思う。
だから、スーパーの職業的発達段階とかキャリアのモデルや基準を知るのも有意義だけど、それと同等に、いろんな人の話をじっくり聴くことが、とても尊いことのように思う。まぁ単純に、身近にいるいろんな人たちのお話をじっくり聴いてみたいなぁという思いもあるのだけど。
で、そういう会の場合、少人数で実際に会って話しこむって構造を守ることが、けっこう大事になるので、とりあえず2人〜4人、特大スペシャルでも6人くらいで(増やすなら回数を増やして)、夏は冷や奴とか、冬は煮物とかつつきながら、深く息してのんびりひっそりほんとのことを語らう、みたいなのをやっていけたらなぁと。
まとまらないものは、まとまらないままに。そうしていくうちに、いずれ何かが浮き上がって見えてくることがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。それはそれで、どちらでも素敵だなと思う。
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