支援と暴力
よいものを作ってお客さんに届けようという目的のもと、あるプロジェクトのサポートに関わる。そこで自分は支援物資をこしらえたつもりでも、プロジェクトの主体となる受け手の価値観やそのときの心境、そのときの状況や文脈によって、それが支援物資として機能することもあれば、暴力になることもあるんだよな。
自分の為すことが支援として作用するか暴力として作用するかは、その為すこと自体の性質で語れるものではない。送り手の主観で支援だと思えば、そうだというものでもない。「自分の為すこと」の支援か暴力かは、受け手にどのように受け取られ、受け手の手元でどのように作用するかで決まるのだ。私は今回、暴力を働いてしまった。
そこで受け手が潜在的に求めている形、密度、スピード、タイミング、それの渡し方、こうした一つひとつのことがうまくはまったとき、それは支援として成り立つ。はまらなければ、それは送り手にとって支援物資のつもりでも、受け手にとっては無用なものだったり、ときには暴力であったりするのだ。
サポートする対象が、潜在的に今何を求めていて、何を求めていないか、発する言葉にまどわされず心を汲んで、求められる支援のありようを見いだせるようでありたい。あるいは、そのとき自分にサポートできることはほとんどないかもしれない。そのとき、それでも何か…と何かを送りつけたりせず、動かずに留まるとか、まったく別の形の無駄のない支援をする、そういう潔さと柔軟性を大事にしたい。
今回は途中からそのように試みたけれど、それは今自分の力量でできる最良の解と主観で下した判断にすぎず、受け手にとっていいものではなかったかもしれない。もっと力量がついたら、もう少しよいふるまいができるのかもしれない。けれど今の私にはそれが見いだせない。道のりは長い。
そのとき、その人のありようを推し量って、より多くの機会で、より多様な人にうまく届けられるのが、その道のプロの仕事ってやつだろうけれど、今回はまだまだ!というのを実証したようなものだ。時間のかぎり、力のかぎりを出しました、で引き渡していては素人仕事だ。時間のかぎり、力のかぎりを出した後に、それをどう引き渡したら相手の手元で有効な支援になるのかを思慮深く考えて、ものを研ぎすまし、さっと出せるよう。
人をよく知ること、己をよく理解すること、相手をよく観て、その人を誠実に想うこと。そういう積み重ねをしながら、またこつこつ自分なりに支援物資をこしらせて、自己評価して、修正して引き渡してフィードバックを得て、あるいは引き渡すのを踏み留まって、反省して、少し大きくなって…を、やっていくしかないか。
一つのことをまっとうするというのは、本当に大変なことだ。でも、この一つのことを、受け手に意味ある形で引き渡せるように、少しずつ深さと幅をもっていけたらいいなと思う。
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