時間をかけて
ここ10日ほどのうちに、早10年、15年のつきあいになる友人たちとの再会が重なった。数ヶ月ぶりの友人もいれば、数年ぶりの友人もいた。いつぶりに会ったのか(お互い歳のせいもあって)よくわからなくなるのだが、なんにしても会えばすぐに、ほどけた会話が始まる。
友人との関係というのは、濃厚に会って心通わせた時期と、会わずともどこかでつながり続けた今日までの期間とを掛け合わせるようにして、時間をかけて熟成されていくものなのかもな、と思う。環境が変わっても、お互いをどこかで気にかけながら、会ったり会わなかったりの時間を重ねていく。その時間の積み重ねが、熟成された独特の愛おしさを心にもたらす感じ。長く生きるほどに、再会というのは味わい深く感じられるようになるのかもしれない。
もうあの頃ほど頻繁に会うことはないのだろうし、いつ終わるともしれない人生で、私たちはあと何回会えるんだろう。感傷にひたりたいわけではなく、その日をともに過ごせた時間を尊く、その日会えた友人を愛おしく思いながらそんなことを思い浮かべてしまうのは、やはり歳か…。
いつ終わるともしれない人生なんて、昔は遠い世界の詩の言葉だと思っていたのに、今は現実的なこの世の言葉として聴こえてくる。大事な人の死に直面したり、大病をわずらったり、それぞれにいろんな経験をして、命のかぎりを実感して再び顔を合わせるのだ。会うごとに通わせる言葉の深みは増していき、私たちは深海を散策するようにして話しこむ。
友人の言葉を、涙を、ただ両手で受け止めることしかできない場面もある。思慮深く考えれば考えるほど、その場で私ができることは実にそれくらいしかないのだった。そんなときは、自分にはそれだけしかできなかったことに戸惑いを覚えながら、その戸惑いを大切に持ち帰る。そしてまた、会わずともどこかで気にかけあう日々を送り、私はその戸惑いと向き合いながら少し大きくなる。そしてまた、私たちはきっと再会するのだ。
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