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2012-07-10

「親鸞」ざんまい

「親鸞」上下巻を読み、「親鸞激動編」上下巻にも手を出して一気に4冊読了。親鸞ざんまい。この後、61歳から90歳までを描いた「親鸞○○編」上下巻が出て完結するはず。いつ出てくるかなぁと心待ちにしつつ、ひと呼吸。

実在しない人物も出てくれば、実在するものの作者が想像力を駆使して描いた人物もあるので、「史実への忠実さ」にこだわり出したら相当ストレスな読み物だと思うけれど、私はそもそも史実に関する知識がないので、おおいに愉しめた。作者もあとがきで「あくまで小説として読んでいただければ幸い」としているので、歴史に詳しい人も小説として本を開くことをお勧めする。私はファンタジー小説だと思って読んでいた。

さて、「親鸞激動編」下巻にある一節。もっと前から読むともっとぐっとくるのだけど、これは親鸞さんが「で、念仏って結局何に使えるの?」的な問いを受けたときの答えだ。

念仏をしても、決して背負った荷の重さが軽くなるわけではない。行き先までの道のりがちぢまるわけでもない。だが、自分がこの場所にいる、この道をゆけばよい、そしてむこうに行き先の灯が見える、その心づよさだけで弱虫のわたしはたちあがり、歩きだすことができた。念仏とは、わたしにとってそういうものだった

人間って結局「私の認識」のなかでしか生きられない。あるいは「私の目」を通してしか世界を見られない。自分の視野が狭ければ世の中も狭く見えるし、自分の認識が多くの人とずれていれば、世の中が歪んで見える。でも、決して世の中そのものが狭かったり歪んでいたりするのではない。世の中そのものは幅も歪みももっていない。世の中広いな、狭いなと思うのは、ある人、あるいはある集団のなかの認識世界でそうなのであって、世の中そのものがその特質をもっているわけじゃない。

自分に対する自分の認識も一緒で、自分のあらゆる面をマイナスにとらえることはできるけれど、それはやっぱり自分の認識世界のお話であって、自分の認識の外からとらえた自分が「マイナス」と定義づけられるわけじゃない。今はやせている女性が全盛かもしれないが、平安時代にいけばまた見方も変わるのだ。地球数十億年の歴史に照らして一度も変動なしの絶対指標など見つけられまい。あってもそれは、過去の歴史に照らした人間の定める指標にすぎない。

自分の認識のなかでしか生きられないということは、自分の認識次第で、自分の生きる世界の見えようを変えられるということに他ならない。

じゃあ、自分の認識を変えるにはどうすればいいか。というと、まず「自分の認識」をできるだけ自分のなかで意識化することだ。意識化されていないことはコントロールできない。意識化できている部分は、自分のコントロールがきく。その認識を広げたり、批判したり、取り去ったり、深めたりできる。

だから、私は自分に根掘り葉掘り質問をする。だいぶ自分には懐疑的で、自分が無意識のうちに何を思い込んでいるのか、何を考え込んでいるのか、自分に答えを問うて洗いざらい吐かせるのが癖になっているのだけど、その答えを聞いていると、自分の根拠のない思い込みなども浮かび上がってくる。けっこう収穫がある。自分に対してはいつまでも、健全に懐疑的な目をもって問い続けていけたらなと思う。静かにやるので&人にはやらないので迷惑はかからないはず。

この下巻の終わりのほうに出てくる一節にも通じるところがある。

いまのわたしに、わずかにわかっていることは、まことの信を得るために自分自身をみつめることの大事さだ。このわが身の愚かさ、弱さ、頼りなさ、それをとことんみつめて納得すること。それができれば、おのずと目に見えない大きな力に身をゆだねる気持ちもおきてくるのではあるまいか

自分の愚かさは最近とみに感じるところだけど、そのおかげか、目に見えない大きな力に思いをはせることも多くなった。というか、当たり前に働いている力として自分の認識する世界に定着してきた感じ。そんなこんなで、難しい仕事に立ち向かう日々だけど、どこかで心の静寂さを得てのんびり過ごしているようにも感じられる今日この頃です。

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