ただボタンを押したかった
この間、甥っ子たちと街中を歩いていたら、彼らが急にたたたたーっと駆け出して、路面店のソフトバンクショップへと入って行った。やるなぁ、ソフトバンクと思いながら後に続くと、お兄ちゃんはiPhoneを、弟くんはiPadを触り出している。
そばで見ていると、なかなかどうして、うまいこと操るもので、タップとかスワイプとかして、あっちこっち行って楽しそうだ。そうやって「触って、反応が返ってくる」というのが、もうそれだけで楽しいって、あるよねぇと思いながら眺めていた。
それで思い出したのが、幼い頃「ボタンを押す」という触感それそのものが快感だったなぁということ。一番渇望していたのは小学生の低学年くらいのときかなぁ。昔はボタンがなかなかなくてねぇ。「ボタンを押す」のがすごく貴重な体験だったのだよ…(千葉県の話)。
電話というのは、ダイヤルをジーコジーコまわすものだったし、テレビのチャンネルもガチャガチャまわすものだった。洗濯機もガスコンロも具合を見ながらつまみをまわすものだったし、ラジオのチャンネルも雑音の抜けるところに自分の手で音を合わせるものだった。インターホンなんてないから、友だちの家に行ったら外から「○○ちゃん、遊ぼー」と叫ぶのが常だった。
私の狭い世界の記憶が確かならば、1980年代初頭まで、世の中の多くの操作は「回転式」だった。「ボタン式」が席巻し始めたのは1980年半ばに入ってからではないか。ファミコンなんかが出てきたのがこの頃で、その前後にうちは家を建て替えたので、そこから家にインターホンがついたり、家の中のいろんな操作もボタン式になって、私はバラ色のボタン生活を手に入れた。「おぉ、ボタンが押せる!」という感動と引き換えに。
でも、まだおぼろげに「ボタンを押す」というただそれだけで胸が高鳴った記憶は残っていた。遠い、遠い記憶だけど、これは貴重だ。「ただ、ボタンを押したい」という感覚の覚えを、30年経った今、私がここに持っているという不思議。なんかよくわからないけど、貴重な気がする。
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