言葉の切れ味
内田樹さんの「呪いの時代」。一読して以来、ちょいちょい頭のなかに思い浮かんでしまう一節。
政治家たちも知識人たちも、いかに鮮やかに、一撃で、相手に回復不能の傷を与えることができるか、その技巧を競い合っている。たしかに、そのような脊髄反射的に「寸鉄人を刺す」言葉が出る人は「頭がよさそうに見える」。けれども、いったいそうすることによって、彼らがいかなる「よきもの」を作り出そうとしているのか。私には、それがよくわからない。
世の中はバカばかりで、システムは全部ダメであるという宣告はあるいはかなりの部分まで真実を衝いているのかも知れない。私が問いたいのは、その指摘が正しいのだとすれば、そのような世の中を少しでも住みやすいものにするために、あなたは何をする気なのかということである。
政治家や知識人にかぎらない。人間っていうのは、気を抜くと簡単にここに堕してしまう。おそらく本能の働きなんだと思う。そして、そのことに無自覚でいてしまう。なので、人のそれには批判を覚えるのに、自分のそれには気づかない。それで、いられてしまう。
では、これに翻弄されないためにどうするか。ということで、普段からの、自分の体を向ける方向、視線を向ける先に気を配る。「よきもの」に向かう体の向きと視線を基本姿勢にしておけば、自分がそれに飲み込まれそうになったとき、気持ち悪さを覚えるようになる。いっときは本能に負けるかもしれないが、少し時間が経てば自分は何をやっているのだと疑問がわきおこってくるようになる。その繰り返しで基本姿勢が完全に自分のなかに取り込まれる。そうしたらもう大丈夫、に違いないと信じている…。それにしても、内田樹さんの言葉の鋭敏さといったらない。「日本の文脈」も読み応えがある。
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