文字をひらく
五木寛之の「親鸞」が面白い。歴史に名を残した人物というのは、まず取り入れるのが「その生涯で何を成したか」という話で、それを知って終わってしまうことが少なくないのだけど、こうやって長編小説として8歳の時分から彼の歩みをたどっていくと、味わい深いことこの上ない。愛おしい気持ちがむくむく湧いてくる。
彼も、自分と同じように幼少期を経て、時代の風をあびながら周囲にもまれつつ助けられつつ、自分というものをもって試行錯誤しながら大人になっていき、人生を生き抜いたのだな、と。こう書いてしまうとなんだか薄っぺらいけれど、読んでいる間に感じさせてくれるものはもっと深く奥行きのあるものだ…。ストーリーがまた豊かで、こういう文章に触れていると、それだけで気持ちが豊かになる。
話が近しいようでそれるけれども、読んでいて感じたことの一つに「漢字をひらく」ことの絶妙さがある。私が好きな一節を取り上げると、
河原坊浄寛(かわらぼうじょうかん)は、茶碗の濁(にご)り酒を一口すすって、東の空をながめた。峰々の紅葉が、夕日をあびて血のように染まって見える。川面(かわも)をわたってくる風がつめたい。
この情景のえがき方が私はお気に入りなのだけど、ここでも、漢字を採用しようと努めればもっと漢字を含めて一文を短くすることはできる。パソコンで書いていれば、先に「眺めた」「浴びて」「渡って」「冷たい」などが変換候補として挙がってきたかもしれない。しかし、五木さんは平仮名を採用している。といってなんでもかんでも平仮名かというとそうではなく、「染まって」「見える」は漢字だ。
道具に使われ出すと、ここは平仮名か漢字かという検討なしに、平仮名より漢字を選んでしまう。それは、先に変換候補として漢字が提示されるため、あるいは少しでも省スペース化に貢献すべく。しかし、世の中には合理化するよりもっと根本に大事なものがひそんでいたりするから、気をつけねばならない。
何のために文章を書いているのか。きっと、伝えたいことがある、表したいことがあるはずなのだ。それが相手に伝わるように、相手の頭の中にイメージが広がるように文章をえがくこと。できるだけ狭いスペースに、伝えたい内容を詰め込んで送り届けることではない。決してだらだら書くことを推奨するものではないし、省スペースで済むならそれに越したことはないが、そこだけに堕してはならないと私は思う。
合理化だけが現代進むべき方向性を指し示すものではないし、「合理化」というのは常に、それより根本の目的ある試みや志しがあって、それに付随するものだと私は考える。スペースの削減よりもっと根本にあるのは、それがどれだけ豊かなイメージをともなって、伝えたい相手に伝わるかということ。そのためには、文字を打って変換したら最初に漢字が出てきても、あえて自分で平仮名に開いてみることも大事だ。こういう試行錯誤は、文章にとどまらず大事なことじゃないかなと思う。
志しをもたなければ、どんどん合理化の波だけに流されてしまう気配。合理化はもっと根っこに、ついていける親分を必要としている気がする。
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