お墓参りの初体験
春分の日は朝早く実家に戻り、父を誘ってお墓参りに出かけた。午後は仕事にあてないといけなかったので午前中だけの強行軍帰省だったけど、前日までの雨空とうってかわってぽかぽかした春らしい陽気、のんびりした気持ちで母の眠るお墓を訪れた。
実は私、お墓参りというのが初体験。昨夏からお墓をつくり始めて年末に完成。先月あったのは開眼供養と納骨で、このお彼岸が初めてのお墓参りだった。さほど知識もないけれど、お彼岸といったらお墓参りだろうと思い、少し前に父に声をかけておいた。ちょうど納骨からひと月あまり経って、様子をみにいったほうがいい頃合いでもあったし。
お彼岸にはやっぱりみんなお墓参りをしているのねぇという感じで、時間帯は早かったものの墓地はこれまでになく人でにぎわっていた(という表現もなんだけど)。前回からひと月ほどしか経っていないので、さしてよごれた感じもなかったけれど、まずはお掃除しようということで、墓地に設置されたたわしやらほうきやらをもって、手桶に水を汲んでお墓へ向かった。
私が柄杓で水をすくって…とちまちました動きをしていると、父は土足で墓石にのぼって頭っからばっさーと水をかけ出した。もう一杯いくか、そっちの掃除終わったらあともう一杯いくかと、計何杯かけたかわからない。大丈夫なのか、そういうものなのか…。
よくわからなかったので、ふーんと見ていたけど、良くいえば、子どもの頃親にお風呂にいれてもらって頭を洗ってもらった後に洗面器に入ったお湯を頭からばさーっとかけられている感じ。悪くいえば、なんかの罰ゲームで大きなたらいに入った水を頭からぶっかけられている感じで、半分子どもの遊びのような光景だった。
「あなた、墓石に土足で乗らないの!」とか「頭っから思いっきりかけないでよ!」とか、母の突っ込みが聞こえてくるようであった…。まぁでも、ちまちまやるより、すっきりきれいになって、良かったんじゃないかな、きっと…。幸い、先祖代々の墓でもなく、母しか眠っていないので理解もあるだろう。
一通りきれいになると、お花をお供えして、お線香の束を寝かせて、父、私と順番にしゃがんで両手をあわせた。ひざを曲げてしゃがむと、先月遺骨を納めたお墓の底に近づき、目線をあわせる気がして心地が良かった。目を閉じると、背中にぽかぽかの日光を感じる。とても静かで、目を閉じた世界に質感があった。
人の死に直面すると、宗教の意味がよくわかる。信仰の必然性が、すとんと腑に落ちる。私のはつまみぐいのような信仰心だし、これ以上に信仰をあつくする気もないのだけど、大切な人の死を、先人の残したストーリーに頼らずして受け止めることは、ほとんど無理な話なのだった。
いなくなりました、というだけでは整理がつかない。お空で見守っているでも、輪廻転生でも、何か「こうらしいよ」という発展的お話を与えられないとやっていけない。内村鑑三の「死んだものが悲しいのではない。棄てられたものが哀しいのである」とは、それがすべてではないけれど、ある一面を正確に表している感じがする。
頼れるストーリーと、物質を欲する。お墓、遺骨、位牌、遺影と、手に触れられる物質も、それなしには喪失感を支えきれないもんだなぁと思う。物として在るということは、時としてとても大事なものなのだと、世のデジタル化と真逆方向をむいて思うところがある。
お墓参りを終えると、父がぽつり「じゃあ、行くか」と口にした。私がうなづくと、父はまたぽつり、「じゃあね、また来るね」とお墓に声をかけた。お墓にかけるにはあまり似つかわしくない表現で、なのにそれがものすごく自然に感じられて、このお墓は私たちにとって、母なのだな、と思った。
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