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2012-03-06

あやふやなことを言う

一つ前の話で、ずいぶんとあやふやなことを書いた。あやふやなことをあやふやなままアップした。かろうじて救われるところがあるとすれば、筆者にあやふやなことを書いたという自覚があるらしいことだが、一方で、自分があやふやなことを言っているのは承知しておるのですと随所に弁明されているのが、この文章のうっとうしさにもつながっており、どっちに転んでも痛い、切ない仕上がりだ。では、なぜこんな状態でアップしたのか、それが本論である。つまり自分救済コンテンツだ。

多くを語るまでもなく、社会において「あやふやなことを言う」の立場は弱い。「あやふやなことを言うな」ととがめられることはあっても、「あやふなことを言ってくれ」とせがまれることはない。「ポイントを3点に絞って話せ」とか「考えをまとめてからもってきてちょうだい」とか、世の中はそんな指導であふれている。

しかし、では「あやふやなことを言う」には何のとりえもないのかというと、そんなことはない。あやふやが「許容」されるだけでなく、「推奨」される場だってあることを見逃してはならない。何事にも裏があり、自分が裏側にまわればそちらが表側になることを忘れてはならない。なんのこっちゃ。

人は何事も、最初から「きっぱり」わかっているわけじゃない。「あやふや」過程を経由してこそ「きっぱり」に到達する。「あやふや」過程なく「きっぱり」に到達したという事柄があるとすれば、それは自分で考えて到達したのではなく、出来合いの知識を人から譲り受けただけじゃないだろうかと、まずは疑ってみる必要がある。その知識は、どれだけ自分の血肉となって日常的に発揮されているだろう。

最もよい学習は、学習者が自身のまだあやふやな段階の思考過程を明示化し、学習過程を通して明示化し続けるときに起こる。 多くの場合、学習者が実際に何かを学ぶのは、それを明示化し始めてからである。つまり、人は自分の考えを外に出すこと(外化)によって、静かに学んでいるときよりもすばやく、そして深く学ぶことができるのである。

R.K.ソーヤー「学習科学ハンドブック」より。なんと頼もしい言葉。そう、私は学習過程なのである、と開き直る。

人があやふやなことを言うのを、TPO問わず糾弾するのでは、「あやふやなことを言う」が不憫である。「あやふやなことを言う」に、まるでその存在価値が一切ないみたいじゃないか。オンラインでもオフラインでも、もちろんTPOに応じて、きっぱりしたこと以外言わないほうがいいこともあるけれど、あやふやなことでも言うべきとき、むしろあやふやな状態でこそ一旦言葉に表す努力をして有効なときがあるのだ。

文章は、完成された人が完成したものを披露するって枠組みだけで語れるものじゃない。人はみな道半ばにあって、学習過程の人が途中経過のものを表出化しているという枠組みで捉えたなら、あやふやなことを書いた文章にも意味は生まれるし、さてこの混沌をどう整理していけるかと考える道具になる。

まぁ文章だと、あやふやもほどほどに…という気分にならざるをえない部分もあるけど(すみません…)、口頭であやふやなことを言っている状態なんかは、許容されるべきだったり、実は推奨されるべき場面も多いのではないかと思う。というわけで、まぁ昨晩ブログであやふや言った本人的には恥ずかしい思いがないとは言えないけど、元気出していこう。「あやふやなことを言う」にも尊厳を!

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