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2012-03-06

ターゲット

ワークショップなどでマーケティングプランなりプロモーションプランを考えるお題が出ると、決まって「誰に向けて?」という設定をすることになる。それで「ターゲットの設定」について人の意見や発表を聴いていて、ちょっと薄気味悪さを覚えることがある。

それはどんなときだろうと考えてみると、そのターゲティングしている対象に対して、発言者の共感性や敬意が感じられないときだと思った。単に言い方の問題かもしれないし、そういう意味じゃ私も人にその薄気味悪さを感じさせてしまっているかもしれない。

なんというかな、自分はその対象に含まれないのが大前提というふうで、「世の中にこういう人っているじゃん」的に、そのターゲットの本質を掌握したような語り口になってしまっているとき。ターゲティングとかしているときって語り口がそうなりがちだし、自分の過去の発言を思い起こしても、ちょっと寒気がする。

ターゲットの設定について議論しているうち、どんどんわかりやすい、つまり表現しやすい人物像に収斂していって、ものすごく薄っぺらい人物描写に終わってしまう。時間内に収斂させなきゃいけない面もあって、んなわかりやすく三流漫画の登場人物みたいなキャラクターいるのか…っていうところに収まってしまう。

現実にいるかより、キャラクターとして立っているか。現実世界に一定数確保できるかどうかより、キャラクターとして表現でき、人にそのキャラをイメージさせられるかどうか。そういう軸にすり替わってしまうと、企画する側の人間の捉え方や表現力が貧弱であればあるほど、リアリティのない架空世界の話に終わってしまう。

「ターゲット」というのは、事業主にしてみればまさにお客さんなわけで、自分たちが手間ひまかけて作った製品なりサービスをど真ん中で届けたい人たちってことだし、それがどこの層になるにせよ、その一人ひとりが実在し、自分なりの人生を生きている、尊い存在だ。

そこを、型通り「何歳から何歳くらいの、こんな属性の、こんなこと思ってる人いるよね」と捉えて語ってしまうのは、すごく前時代的ではないか。多様性が説かれる時代に、旧来のマス広告的やり方に学ぶべきじゃない一番のポイントじゃないか。

伝えたいことを書くだけの文章力がなくてすごくはがゆいんだけど、人間、普通に生きていれば誰しも、一定量の自尊心だとか自負心だとか名誉心だとかプライドだとかってもつと思うし、時には人に羨望のまなざしを向けたり、嫉妬、焦り、苛立ちを自分の心のうちに認めて、自分で自分がいやになったりもする。人と比べて卑屈になる自分、衝動に振り回される自分、やり過ごす自分、やるせない自分を相手に格闘した体験だって、多くの人がもっているはず。

そういったものを、あたかも自分にはないけど、この層にはこんな感情あるよねぇって人物描写した「ターゲット設定」を聴くと、あれ、なんかものすごく高尚な人間が低俗な人間を描写しているふうに聴こえるけど、人間ってあなたも私もそういう低俗な生き物だよねぇって確認したくなる感じ。ターゲット設定を見誤ってもメッセージって伝わらないんだろうけど、発信者である自分自身を見誤っていても、届けたい相手へのメッセージは伝わらないんじゃないかな、と思う。

どんどん話が散漫になっていくけど…、どんなターゲット設定でも、抽象度をチューニングすれば自分が共感をもてるポイントってあると思うし、そういうものを感じられる域までもぐってみないことには、人の描き方としては浅薄すぎるのかなと思う。いい小説を読んでいると、年齢性別性格問わず、どの登場人物にも共感できるところが出てくる。あれってまさに、人間社会のリアルを描いているよなぁって思うのだ。深く潜り込んで人を捉え、それを表現する力を備えていれば、いろんなパーツパーツでどんな人とも共感をもってつながれるんだろうって。

で、ターゲットの設定に、何となくリアリティや真正性を感じないときって、その対象に対する語り手の敬意とか共感性に不足感があって、掘り深めるところまでまだおりていっていないってことなんじゃないかなぁと。よくわからないで感覚的に書いているだけなんだけど、なんとなくそんなことを思った。はぁ、全然うまいこと書きたいことが書けない…。とりあえずもう、この話は散漫なまま終わっていいと割り切ったのだ。最後までおつきあいありがとうございます。

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