欲なくない
昨日は誕生日だった。年々、年齢不詳感が増していく気がするのだけど、36歳である。「いつまでも若々しいわ!」というよりは、「あっさり淡白で変化が感じられない」という意味において、実年齢より若く見られることが多いように思うが、それもまた自分らしい齢の重ね方ということになろうか。最近は自分でも自分の年齢を忘れてしまうけど…。
今年は昨年にもまして、Facebook上でお祝いメッセージをたくさんいただいた。なんだかものすごい数なので、私、こんなに友だちいたのか?と驚いてしまった。自分の市場価値が何かのまちがいで急騰し、明日一気に暴落する、みたいな折れ線グラフが頭のなかに描かれて、ここは一人ひとりのメッセージをありがたく頂戴して、数の多さには心惑わされぬようにと脇を引きしめた…。いいですか、これはFacebookの力なんですよ、と。
年を重ねれば重ねるほど、人は複雑になり、多様になり、私はこういう人間ですとは言い表せなくなってくる。自分を優しい人間ですといえば、優しくなかった過去の自分のふるまいが顔を出すし、厳しい人間ですと言えば、あったかいふるまいをした過去の自分が顔を覗かせる。そのまるごと全部を背負って生きていくのだから、年をとればとるほど背負うものは多くなるはずなのに、なんでしょう、36歳にもなると、逆に何も背負っていない感じに自分のことは相当ふわっとしてくる。
家族のこととか、周りの大事な人たちのこと、社会のこととかで、自分がなすべきことに考えを巡らすことはあれこれある。お子さんをもっている方とかは私の比ではないだろう。そういう世界観になってくると、「自分」というものの見え方ってずいぶん軽くなっていくものだ。
もう自分について「何かになりたい」とか思わないのかもしれない。「何かをしたい」とは思う。その一つひとつを積み重ねる日々であって、それが世の中の業界だの職種だの、既成の一つの枠組みにおさまらなくても構わないし、それを気にしてやるのやめるの考える意味も見つからなくなってくる。
若いうちは、あちこち手を出さないで石の上にも三年みたいなことに一定の価値を見いだせるが、年取ると今の自分が貢献できるもの、貢献したいことに身を捧ぐのが合理的と、ある種判断が単純になっていく。
「何かになりたい」という軸がなくても、自分で「何かをしたい」と具体的に生み出せる力もついてくるから、誰かに名づけられた既成の枠組みを目指して、それになるためにその要件を満たしていく、みたいな奮起の仕方をしなくなっていくのかもしれない。歳をとると。昔からさしてあったような気もしないが、それはまぁ個体差ということで…。
肩書きのつかない、大成しない生き方かもしれないけど、やりたいこと、やるべきと自分が思うことを一つひとつ形にしていけたらいいかぁと、そんなふうに思う。
またしばらく仕事が忙しそうなんだけど、大事なものを、大事にしたなぁと振り返れる一日一日が積み重なって、一年を過ごせたらいい。大切な人や大切なことなのに、そうであることを忘れてしまったり、大切だと思っているのに大切にできなかったり、そんなことがないように。それだけで、人生は十分にすばらしい。
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