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2012-02-05

思慮深さと率直さ

昨日は母の一周忌だった。それとあわせて、開眼供養と納骨、そしてお斎(お食事)。身内だけのささやかなものだったが、京都や奈良からも親戚が参列くださって、昨日のお天気のようにほがらかに執り行われた。

うちはお墓をもっていなかったので、母の遺骨はこの1年おうちにあった。夏に手配したお墓が12月に出来上がって、昨日ようやくお墓に遺骨をおさめた。位牌、遺影、遺骨が長く一緒にあったので、遺骨を手放すのは少なからず喪失感を伴うものだった。お墓の事情ということもあったけれど、1年おうちにあったのはかえって良かったのかもしれない。そして、納骨後も家に残ってくれる位牌と遺影のありがたさを感じた。

一通りの儀式を終え、あと数日で命日がやってくる。1年前、母を亡くした晩に書いた文章がここにある。

本当に美しい人だったのだ。人の心を思いやること、言葉を大切にすること、善良であること。そうやって生きていくのが、当たり前のことなのだと教えてくれたのが母だったと思う。会話やふるまい、人への向き合い方、日々のことを通して彼女は私にそれを示し続けた。親から自然と、そして無自覚に譲り受けるのは、「自分にとっての当たり前は何か」ということなのかもしれない。

この時はこの時の精一杯で、自分が思うことを言葉に表した。しかしその後も、彼女はどういう人だったのか、私は彼女から何を引き継いだのか思いを巡らすことがあった。

そしてある時、あぁこれかもな、彼女が私に示し続けたもの、彼女の魅力を下支えしていた核はこれかもしれないと思うことが見つかった。それが、思慮深さと率直さをバランスさせることだ。

彼女は、あるときは思慮深く、あるときは率直にふるまった。常に控えめというのでもなかったし、常に威勢よくモノを言う人でもなかった。どちらかに常に振れているのではなく、かといってどちらも持ち合わせていないのでもない、どちら側に振れた彼女も頻繁に見かけた。必要なときに必要なだけ、必要なほうの所作をとっていたように思う。

この状況だったら、今は何も言わないでそっとしておいたほうがいいとふるまったこともあっただろうし、察した誰かの思いをさりげなく他の人に伝えて物事がうまく運ぶようにふるまったことも数知れなかったと思う。それをして、自分の手柄をひけらかすようなこともなかった。

一方で、必要なときには物怖じせずモノを言い、その場ですぐ判断して事態を前進させた。そこで生じる誰かの心のざわめきにも敏感だったし、そうした感情を認めて自然に心配りをする人だったとも思う。

それがどんなふうに彼女の中でなされていたのかは、勝手に妄想するほかないけれど、なんとなく私が思うのは、頭でっかちに自分はどうあるべきかとか、どうありたいとか考えていなかったのではないかと思う。私は思慮深い人間でありたいとか、率直でありたいとか、そんな抽象的な言葉を頭のなかに掲げて、その言葉に向かって自分作りするような感じはなかった。

自分が大事に思うとおりに生きていたら、結果的にその表れが思慮深く、率直なふるまいになっていたという具合ではないか。自分が思慮深くあることにも率直であることにも、さしてこだわりをもっていなかったように思われる。だからこそ、自然体のバランスがうまく機能していた、というような。

私が無意識に教わっていたことの一番は、どちらか一方に傾倒せず両方を自在に行き来できることの意義深さであり、それを成すためには、どちらも自在に扱えるよう両方の力を蓄えておくこと。それを自然体で成すには、どちらか一方のやり方にこだわったり、それが癖になってしまわないよう、気持ちが特定の手段から解放されている状態を大事に保つこと。

あえて言葉にするならそういうことを、なんとなく吸収しながら生きてきたような気がする。私がこんなわかりにくいところに母の魅力の核を見いだすのは、ここのところをこそ、母から引き継いでいきたいと私が思っているってことなんだろうなぁ。四苦八苦して言葉に表しながら、そう思った。

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