表現すればするほど
ずいぶん前に心に響いたと記憶する言葉が、最近Facebook上で話題になっているのを目にした。
正気を失った人間の抱く幻想ほど美しいものは、現実世界のどこにも存在しない。
これは、村上春樹さんが「走ることについて語るときに僕の語ること」のなかで記した一文で、ビール飲みたいなぁ、飲みたいなぁと思いながらギリシャのオリジナル・マラソン・コースを42kmほど走り終えて、へっとへとになってビールを飲み終えた村上さんが、実際ビールを飲んでみたら、確かにおいしかったけど、走っているとき幻想に抱いたビールほどではない、という話をした後の一文だ。そこから、ここへ言葉が運ばれるところが村上春樹である。
で、これをもとに作られたサッポロビールのCM「走ることについて語ること」が箱根駅伝のテレビ中継時に放送されたそうで、2012年1月末までここで観られるようになっているのだとか。私がFacebookで見かけたのは、このサイトへの反応だった。
おそるおそる観てみると、ある程度予想はしていたんだけど、やはり感じてしまった物足りなさ。初めてこの言葉に触れた人には十分に響いているようだったので、自分の感じる物足りなさについてちょっと掘り下げて考えてみた。
つまり、こういうことではないかと思ったのは、私はこのもととなった本のほうを、これが出版されたときに読んでいて、自分の中にはすでに、そのとき自分が勝手に作り上げた壮大な本の世界観、完成イメージができあがってしまっているってことなのではないか。私含め、誰にもそれを超える“具現化”をなすことはできないということではないかということ。
原作を読んだ人が、その後映画化された作品を観ると、多くの場合それが自分の読書体験よりチープに感じられてしまうのは、もはや仕方ないことなのではないか。どんな見事な映像化も、人の脳内に完成された形をもたないイメージには太刀打ちできないのではないか。
正気を失わずとも、人間の抱く幻想ほど美しいものは、現実世界のどこにも存在しないのかもしれないなぁとか勝手に思い巡らせつつ、ふと思い出したのが内田樹さんの「呪いの時代」にある次の一節。関係しているのかしていないのか、よくわからないけど…。
「記述」することによって僕たちは何かを確定し、獲得し、固定するのではなく、むしろ記述すればするほど記述の対象が記述し切れないほどの奥行きと広がりをもつものであることを知る。
写生が僕たちに教えてくれるのは「なまもの」の無限性、開放性と、それに対する人間の記号化能力の恐るべき貧しさです。
「記述」や「写生」という言葉を、“表現”に変換してみる。表現すればするほど、その対象が表現し切れないほどの奥行きと広がりをもつものであることを知る。表現することで私たちが悟るのは、人間が想像するイメージの無限性、開放性と、それに対する人間の記号化能力の恐るべき貧しさ。人間も自然界に生きる「なまもの」だから、私たちの想像は果てしないなぁと。
だから、何なのだ…と言われると、いやぁそう思っただけだし、論理だてて何かしゃべれている気もまったくしないのだけど。ただ、まぁなんらかまとめっぽいことを書くなら、そんなことをわきまえつつ、私たちはなお、表現をしていくべきなのだと思う。実際に表現することで初めて感じることができる、「なまもの」の無限性、開放性と、人間の記号化能力の恐るべき貧しさを味わうことは、けっこう意味深い行いだよなぁと、まとまりなくぼんやり思う休日。
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