傭兵的国民性という思いつき
フレームワークを作るとか、グランドデザインを描くとか、これまでにないプロダクトを生み出すとか、苦手なんだったら苦手で、もう日本はそこで戦わなくてもいいんじゃないかとか、ふと思ったりする。抽象の世界で戦うより、具象の世界で戦ったほうが肌にあっているんじゃないかという。
もちろん個人や各組織、各業界の志向は尊重されるべきだと思っているので、それはそれ、これはこれ(ざっくり日本)ということで…。
もうフレームワーク作りとかは、そういうの大好きな海外勢に任せてしまって、とにかくいいプロダクトを作ることに集中してしまうとか。もっと言えば、プロダクトを作るのはそういうの大好きな海外勢に任せてしまって、超高精度な「部品」をありえないほど速く正確に作ることに集中してしまうとか(もちろんそこにもフレーム作りの仕事はあるわけだけど、それは現場が見える範囲の抽象度に留まったフレームワーク作りだ)。
もう「部品」を作らせたら右に出るものはない国としてプレゼンスを発揮しまくるという。各国の「こうしたい」「ああしたい」というグランドデザインに対して、高い技術力と、相手の意向を奥深くまで汲む能力と、献身の心でもっていくらでも願いを叶えてあげますよという、ものすごいデキル傭兵という立ち位置をとってみるのはどうだろうかと。
私は仕事していると、個人的に受託産業って肌にあっているなぁと思うのだけど、それは自分のなかの「傭兵」的志向に起因しているとみている。これは人によって相当好き嫌いの分かれるところだと思うけれど、私は事業としてこういうことをやりたい、育てたいというよりも、よそから問題が持ち込まれる環境に身を置いておいて、持ち込まれたらそれに対して全力で、より高い自分の専門性をもって応えられるようにしておく、という仕事スタイルがすごくあっていると思っている。受託人間だなぁと。アーティスト志向でなくデザイナー志向?、起業家精神というより職人魂?という感じ。もちろん、その専門性の軸をここに置きたい、ここを育てたいってのはあるんだけど。
で、本当にただ肌感覚で直観的に思っただけなんだけど、日本もそうなってみたら、けっこう肌にあったりしてなぁと。なんか、自国ではこれといって熱っぽくやりたいことがあるわけじゃないんだけど、他国の○○さんが「あれしたい」「これ作りたい」という欲求をもっているなら、それが叶うように力になりたいなぁ、できるかぎりの高い専門性を発揮して誠心誠意仕えます。というのは、けっこう日本の精神性にあっているんじゃないかと。
でも、こういうこと書くと、いやいやそんなことないんじゃないのーみたいな気分も生まれてくるのがアンビバレンスという人の性。結局のところ、個々人がやりたいことやればいいじゃない!やるしかないじゃない!ということでお茶を濁してこのまま走り去ろうとしていますが。すみません、基本どっちつかずなもので。「国」という概念と実際も、そのうち今とは違う形に変容していくのかもしれないし。もう変わり始めているのかもしれないし。でも、それがわかるのは100〜200年後とかかな。
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