お食事にケーキ
休日のお昼どき、私は軽い食事と読書に近所のスターバックスを訪れた。スタバで食事をするならあれかこれ、と注文する品はだいたい決まっており、レジ手前でガラス越しに目当てのものを探した。が、その日はあれもこれも見当たらなかった。
困ったな…と代替の注文に迷って、棚の下段にあるサンドイッチのある辺りを覗き込んだ。すると、レジにいた店員さんがこちら側に出てきて(他に待っている客もいなかった)私の隣に立った。
「お食事ですか?」と声をかけてきたので、「えぇ、そうです」と私。あわわ、レコメンドが始まるか、でもあの辺のサンドイッチは重たそうだし、ここは薦められる前にこれと決めてお会計に進んだほうがいいな、なんて思いながら候補をしぼりにかかった。
少しかがみこんだ姿勢で5秒だか10秒検討。その間にも何か続けて言ってくるかなと思ったけれど、会話はそこで一時停止していた。そして微妙な沈黙の後、店員さんがこう口にした。「こちらのケーキは、ここに出ている以外にも中にいろいろありますので」と。
それは、あたかも先ほどの会話を汲んで不足部分を補うような軽くふわっとした口調だった。決して、先ほどの会話を根底から覆すことを言いますが!という意気込みある物言いではなかった。
私は中腰のまま混乱した。先ほどの会話から5〜10秒しか経っていない。その間「だが、しかし」的な逆説的会話は一切なかった。二人の間にあったのは沈黙であり、風向きを変える会話は何もなかったのだから、先ほどの会話からは順接的な流れが続いているとみるのが順当だった。
「お食事ですか?」「えぇ、そうです」「お食事でしたら…」という展開が想定された。下段のサンドイッチとか、目線を上にもっていかせるにしてもスコーンとかパン類に留まるだけの在庫は十分にあった。
なぜ、ここでケーキなのか。衝撃を受けたまま、それでも何か言葉を返さなきゃと思い、私はとっさに「いや、食事なので」と口にしてしまった。頭の「いや、」と口にしたあたりで、あっ!ストップと思い、後半の「食事なので」は意識的に穏やかな声調にかえてこの一言を着地させた。
つもりだが、それにしたって「いや、食事なので」という台詞自体が、初対面の相手に送る言葉としては決して柔らかくない。その言葉を採用して発言している時点で、内面的に及第点未満なのだった。はぁ、と心の中で自分にため息をつく。とりなすように代替の品をこれと決めて、「これにしますね」と笑顔で返した。
その後席についてから、この一件について腰を落ち着けて考え始めた。そこから数十時間、ふと思い出してはあれやこれや考えている…、もはや出がらしである。ちなみに、私はこういう一件に対して、上辺だけ穏やかに取り繕うことにはさしたる関心がない。こうした事態に直面したとき、自然体の自分がとっさにどういうふるまいをする人間でありたいかというところに関心がある。それに対して、今回の自分がどうであって、何が納得いかなくて、どうあれば納得がいったのか、そのためにはどんなふうに自分の内面を成熟させる必要があって、それはどんなふうに成し遂げられそうかを考えることに意味がある。
閑話休題。少し考えればいくらでも、なぜあそこでケーキの話が登場したかイメージすることはできる。店員さんの側にまわってみれば、とりあえず何か困っているふうの客に対して力になりたいと思って表に出てきて、声はかけてみたものの、その先がなかなか続かなかった(けど支援したい気持ちはあった)ということかもしれない。とにかくお客さんとより良いコミュニケーションを図りたくて、でも言葉が続かなくて…という感じだったかもしれない。食事については客に考えてもらうとして、食後のデザートについてなら、ちょっとした付加情報を提供できると思って口をついて出たのかもしれない。あるいは、ケーキだって腹にたまる立派な食事だと思っていたのかもしれない。
店員側にもっと順当な接客の仕方があるだろうとみれば、それはそれでいくらでも挙げられるわけだけど、私がこうした日常体験で見直したいのは、私という人間のあり方だ。そういうときに、「あっちは商売で、こっちは客なんだから」という違う階層の事情を持ち込んでも、それは自分を守る言い訳にしか働かない。私は一人の客である前に、一人の人間としてどうありたいかを考えたい。
私のふるまいに焦点をあてれば、こちらはこちらでいかようにも店員さん側の思いを汲むことはできたわけで、その思いを汲めば、たとえ文脈がずれていないか?との批判がわいたとしても、あるいはそれを伝えようとしたとしても、「今、食事やて言うたがな」くらいの突っ込み方を選択できたのだ。いや、まぁ言い方はあれだけども…。
そこから反省するに、もっと敏速にその店員さんの立場にまわってイメージを膨らませることができれば、私の心のうちはもっと寛容で、私のふるまいはもっと穏やかなものになったはずである。それが今の私の器では、考えるのにしばしの時間を要し、豊かな選択肢がとっさには得られなかった。プライベートな時間だったとはいえ、キャリアカウンセラーの端くれとして、まだまだ懐が浅い、至らんなと思う。
カウンセラーというのは、外に発する言葉を「伝わる」ように放つのが基本だ。「伝える」ためどまりの言葉では意味がない。常々ってわけじゃないけど、少なくとも自分の言葉が「伝わる」ために発しているものか、「伝える」ためどまりでOKな場面なのかには、言葉を発する手前で意識が及んでいなければならない。
その上で、「伝わる」軸で考えたとき、言うか言わないか、どう言うか、いつ言うか、どんな表情で言うか、どんなスピードで話すか、どんなまなざしで伝えるか、それによって伝わるものはがらっと変わってしまうことを十二分に認識していなければならない。それは能力の領域にも、意識の領域にも関連するけれども、結局は内面の私の懐に帰結するのだと思う。というわけで、もっと懐のでっかい人間になりたいなぁ…。
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