「である文」と「べきだ文」
スターバックスに行くと、たいてい紅茶を頼む。コーヒー屋で紅茶を頼むなんて、焼き肉屋で焼き魚を頼むようなもんじゃないか!と思うむきもあるかもしれないが、私は一回頼むと毎回同じものを頼み続ける(面倒くさがり)習性があるので、どうせ常習化するなら薄めの飲み物のほうが健康にいいだろうということで、薄めといえばコーヒーより紅茶のほうが透明度が高いな、という。まったく気分の判断だ。
それはさておき、スタバで紅茶を頼み、席についてそろそろティーバッグを引き上げようとすると、3回に1回はひもがちぎれる。ティーバッグのひもが、水分を含んで重くなった茶葉の袋を支えきれないのだ。それで、ドボンと袋がマグカップの中に落ちる。そのままにしていては紅茶が濃く苦くなるばかりなので、私は席を立ち、プラスチックのスプーンを取りにいって、それで袋をすくいあげ難を逃れる。これをまぁ3回に1回はやっている。で、トレイはこんな感じになる。
さて、ここで人は何を思うか。「スタバのティーバッグは、取り出そうとすると3回に1回はひもがちぎれてマグカップの中にドボンと落ちる」という事実から人は何を引き出すか。そんなことを考えながら、私は休日にスタバで紅茶を飲んでいる(暇人だ)。
「当然だろ、スタバはティーバッグのひもを改善すべきだ」という軸に立ち、人によっては具体策に踏み込んで「ひもを太くすべきだ」とか「ひもの粘着性を高めるべきだ」なんてアイディアを出すかもしれない。
しかし、この方向は唯一無二の正しい答えじゃない。私はヒュームの言った「けっして『である文』から『べきだ文』は結論できない」という言葉が好きだ。事実を記述する文から、行動方針を命じる文あるいは規範を示す文を決定づけることはできない。
といって、ここで終わっちゃお話が続かないし、何らかの「べきだ」と方針を引き出してこそ人間じゃないかとも思っている。思っているけれど、「けっして『である文』から『べきだ文』は結論できない」という前提に立って「でも、私はこういう理由でこうすべきだと思う」というのと、はなから「これこれである。ならば、こうすべきだ。それ以外の選択肢は断じてありえない」というのとでは、ずいぶん違う。
「3回に1回なら過半数超えていないんだし、いいんじゃないの? そんなことで苛立つなら、そんなことに苛立つ世の中のほうが問題だ」という捉え方だってあるかもしれないし、「ティーバッグを改良するのは大変だから、プラスチックのスプーンをつけてあげたら」というのも一つの策かもしれない。改良コストを考慮したら「ティーバッグに入れる茶葉の量を減らすべきだ」というのも一つの策だ(以前より茶葉の量が増えて、ひもがちぎれやすくなったというような気もするんだな)。
最近は、なんでもかんでも収束させるほう、させるほうへと足早に向かっていくけれど、とりあえずいったん拡散させるという筋肉も使っていかないと、そっちの筋肉がどんどん縮んでいっちゃうんじゃないかなーとか思ったりする。いろんな事実の捉え方があって、いろんな策の導き方がある。その中で、視野を広くもって現実を捉えて、アイディアを拡散させた上で、一つのストーリーに収束させるやり方がいいなと。
とりあえず、「である文」から一つの「べきだ文」しか思いつかない自分に気がついたら、それは自分が拡散せずに一気に収束に向かっている証拠とみて、視野をががっと広げてみる時間を1分でも挟みたい。結局は使わないものだとしても。なんか散漫な文章になってしまった…。
« 表現すればするほど | トップページ | 「生産的な対話」をなす能力 »
私はスタバの店内で飲むことはほとんどなく、職場に持って帰って飲むので、これと同じ体験はないのですが、ティーラテは好きなのでたまに買うことがあります。
そこで思うことは、カップの中のティーバックの占めている体積が半端なく多い!ということ。
それだけ茶葉を多く使ってくれているので贅沢っちゃぁ贅沢ですが、節約でトールではなくショートを頼むことが多い私には、飲み終わってカップのふたを開けて中を見たときに、ショートの小さいカップの中の3分の2くらいをティーバックの体積が占めているように見え、飲み物の量がすごく少なく感じるのです。(実際飲んでてカップが重たいのでまだあるかと思ったら、えっ、もう終わり?みたいな)
「べきだ」はなかなか言い切れない性分なので、使うことは殆どないですが、気持ちとしては「ティーバック、もう少し小さくしてみては?」とスタバにおすすめしたいです。
拡散と収束は、新商品アイディア企画の時にここ数年何度か辿っている道のりですが、最初に収束してしまうとつまらないものしか出ない、でも拡散は沢山出てきても、そこから収束するのも意外と難しい、、ということを体験中です。。まさに今も。。
でも最初に一つに収束しない方がいいというのは、何事につけてもその通りですよね。物事にはいろんな側面があるので、一面からしか見ていない意見で決めつけるのもよくないです。
わかっていても、、そうしてしまいがちなので気をつけたいです。。
投稿: ベル | 2012-01-12 08:50
ショートサイズだと、これは大打撃ですね(笑)。ラテでなく普通の紅茶だと、トールサイズ以上しかないんですけど、ラテだとショートもあるんだ。あの普通じゃない茶葉の量だと、家庭用風呂の湯船におすもうさんがつかったみたいな状態になりますよねぇ。
ショートのことも考えると、やっぱり茶葉の量を減らすという方向が一番いいかしら。前はもう少し小振りだったと思うんですよねぇ。
拡散させることも大事、その後ある方針をもって収束させるのも大事ですよね。で、そのときには必ず、自分の意思とか信念みたいなものが必要になるんだろうって思うんです。
論理的/客観的に答えを導き出すとかってよく言うけれど、結局のところ論理とか客観だけだと一つに絞り込むことってできないんじゃないかと。どっか一つに方向を定める力は主体者の心にあるんだろうって思います。
それだけに、場合によってはとても難しいことになるんじゃないかなと。仕事は一人の思いだけじゃない面もありますしね。でも、なんかそういうことを踏まえて、なお拡散と収束をしていきたいなって思います。
投稿: hysmrk | 2012-01-12 20:01