本当のこぶとり爺さん
「こぶとり爺さん」といえば、隣り合って住む2人の爺さんには、ともに片方のほっぺにこぶがあり、欲のないほうの爺さんがたまたま出くわした鬼の宴で踊りを披露したら、こぶをとってもらえたという。それで、もう一人の欲張り爺さんが自分も…と鬼のところに出向いて踊りを披露すると、今度はこぶを取ってもらえるどころか、欲のない爺さんから取ったこぶも逆のほっぺにつけられて、こぶが2つに増えてしまったとさ、というお話だった(参考:Wikipedia)。
欲張り爺さんが両頬にこぶをもつはめになったのは欲張りだったからであり、欲のない爺さんがこぶをとってもらえたのは無欲だったからだと、そういう理解でこの歳までやってきたのだが、最近知ったことには、「欲張り」とか「無欲」とか、そんな修飾は原話にはついていないのだそうである。
河合隼雄氏の「昔話の深層 ユング心理学とグリム童話」によれば、2人目の爺さんは「欲張りだったから」ではなく「創造せず、ただ真似るだけだったから」罰を受けたというのが原話である。それが、話を分かりやすくしようとしてか「無欲」やら「欲張り」やらを後づけたことで、かえって話の本質がわからなくなってしまった、というか全く別の話になってしまった。
先の本によれば、白雪姫を殺すように命じた王妃も、ヘンデルとグレーテルを家から追い出したお母さんも、原話では継母ではなく実母だそうである。となると、これもまたたいそう話の本質がずれてくる。
確かに、ディズニー映画で「白雪姫」やるとなったら、実母がそんなことしちゃうわけにいかないだろうなぁとも思うし、歴代の手を入れてこられた方々の思いもお察しする。それはそれで創作ともいえるのだろうけれど、しかし原話との話の本質のずれ具合は相当だ。
受け止めるのに抵抗がある、あるいは難しかったりわかりにくかったりする、簡単には腑に落ちない、けれどとても本質的なこと、普遍的なことというのが世の中には存在していて、それを易きに流されてうやむやにしたくないと思う。「難しくてわからない」というのはいいけれど、本質とずれたところを見ているのにわかった気になってしまうとか、見て見ぬふりしてやりすごしてしまうというのは、どうも性に合わない。
そうこうしているうちに、いろーんなことの本質が見えなくなってしまうのが怖い。本質と上辺を見分ける能力が衰えていくのは怖い。分けられなくなるとは、わからなくなるということ。昔の人間には分けられていたものが、分けられなくなっていく。わからなくなるというのは、怖いなぁというか、人としての退化だなぁというか、もったいないなぁと思う。原話は繊細で、時に壮絶だったりするけど、なぜ原話はそう描かれたのかについて読み取っていけるだけの懐をもっていたい。
« 死と再生の一年 | トップページ | パーソナライズ »
コメント