« 言ってる円と、やってる円 | トップページ | 本当のこぶとり爺さん »

2011-11-06

死と再生の一年

友人の奥さまの告別式に参列してきた。一度も会えずじまいになってしまった。39歳だった。昨日のお通夜が3歳になるお子さんの誕生日だった。お通夜はUstreamを通じて実家から少し拝見したのだけど、お母さんのひつぎの前で、お子さんのお誕生日会が開かれ、多くの参列者によってハッピーバースデーが歌われた。告別式に訪れると、BGMにはロックがかかっていた。式場に掲示されたたくさんの写真たちは、どれもこれもチャーミングで美しかった。型破りなご夫婦の、そしてご夫婦とは「同じ釜の飯を食った仲間」という表現がぴたりとはまる型破りな仲間たちによる、心のこもった式だった。

私にとっては、友人というのもおこがましい方の奥さまということになるけれども、今年4月に癌の宣告を受ける以前から、日々友人がアップするご家族の写真や動画を覗きみては、その温もりに頬をゆるめていた。出産後の写真でアップされたものは、(相当数におよぶけれども)たぶん今日までのもの全部見ていると思う。

病気が発覚したのは今年の4月。私が母を癌でなくして2ヶ月足らずという時期で、共時性を感じる一方、どうか自分の母とは対極の道を歩んでほしいと思った。そう思うと、自分が近寄るのもなんだか良くないことのような気がして、ただ遠くから完治を祈り続けた。7ヶ月ほどの闘病生活。彼女のブログを読み、友人の日々アップする写真を見ては、ただ祈った。

でもごく最近の、亡くなる直前から今日までの友人のtweetや写真は、まさに9ヶ月前に自分がその場にいた空気感と通じるところが多く感じられた。病状が悪化して大切な人との会話がかみ合わなくなっていくときの気持ち、意識が遠のいていってしまうのを目の当たりにする辛さ。深夜病院に呼び戻されるとき(私は病院で父と兄を呼び戻す立場だったが)、本当にさようならの瞬間を目の前で見届けるとき、病院の裏手からひつぎの隣に座って自宅に帰るときの思いを追体験した。

おのずと重なってみえることが出てくる一方で、決して重ねてみちゃいけないんだという意思も強く働いた。39歳という若さで、3歳になる我が子とだんなさんを残してこの世を去ることの壮絶さは私の想像をはるかに超えている、ということくらいしかわかりようもなく、こうした中で友人が大切なパートナーを失う心のうちは、私が母を失うものと重ね合わせようのないものだ。

でも「わからない」というだけで終わらせられるものでもなく、終わらせたくもない。だから私なりに受け止められるものを受け止めながら、彼女の人生を受けて自分を変えていくことができればと思う。

これまでの人生で、これほどまでに生きることと死ぬことについて深く痛く考えさせられる年はなかった。今年は世の中の多くの人にとってそういう年回りなのか。それとも日本にとって?それとも、私のような年頃になると皆体験することなのか。それとも、ごく個人的に私の身辺にこうしたことが立て続けに起こっているんだろうか。いつ終わるか本当にわからない人生、終わりは本当に突然やってくるかもしれない。実際、私の身辺にはそうしたことが立て続いていて、もう残りはそう長くないかもしれない人生で、おまえは何をやるのだ、何をしているのだと問われ続けているような一年だ。

« 言ってる円と、やってる円 | トップページ | 本当のこぶとり爺さん »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 死と再生の一年:

« 言ってる円と、やってる円 | トップページ | 本当のこぶとり爺さん »