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2011-10-25

未知と間違いの見間違い

ちょっと前ですが、gihyo.jpで連載している「Webクリエイティブ職の学び場研究」の第3回第4回が公開されました。よろしければぜひ食後のコーヒーのお供にしてやってください。クックパッドさんに訪問してお話を伺ってきた取材の前編と後編です。

この連載では、自分がその取材を通じて考えたことや、その取材内容に関連して普段自分が考えていることなど含めつつまとめているのですが、今回含めた考察の一つが、クリエイティブ職とマネジメント職について(第4回の最後のところ)。

「未知の仕事」をそのまま「自分にあわない仕事」とか「非クリエイティブな仕事」と位置づけてしまうのも早計という思いがあります。私は,社会的な目的を見据えて1つの仕事を捉えたとき,創造的でない仕事などないと思うのです。

これに限らず私たちは、自分が「知っていること/もの」と「知らないこと/もの」の間に立って、双方を見比べたりどちらかを取捨選択することがままあります。でもそんなことは日常茶飯事なので、人は徐々に「知らないこと/もの」のほうを相対的に無価値なもの、信頼をおけないものと視界から排除して、気にかけなくなったり存在を否定したりしてやり過ごすことを覚えていくのではないかと思ったりしました。

当たり前といえば当たり前の話ですが、自分がすでに「知っていること/もの」と「知らないこと/もの」が同じ領域の中で相反するものとして眼前にあったら、そしてすでに自分が前者に価値や信頼をおき、自分に適合する感じをもっていたら、あえて不安定な「知らないこと/もの」に向かう必然性がないわけです。

冒険心や好奇心をかき立てられて、あえて未知の分野に向かうことももちろんあるでしょうが、日常のあらゆる選択にいちいち立ち止まっても、立ち向かってもいられない。ささっと購入したい日用品は、知らないメーカーより、知っている/評判のよい/いつも使っているメーカーのものを買う。たいがいのことは「知っていること/もの」に自然と価値をおいて、そちらを選択することが自動化されているのではないかと思います。

でも、その自動化が知らぬ間に習慣化され、あらゆる選択に適用されていくと、ものすごーく大事なことでも立ち止まることなく知らぬ間に「知っていること/もの」を選び、賞賛し、「知らないこと/もの」を選択肢にあげず、軽視する状態にはまってしまいかねない。それは怖いなと思いました。まず一度は自分の意識の上にもってきて吟味したい。大事なことは。

これは自分自身の選択においてもそうですが、専門家として人にものを言うときにも大切な意識だと思うのです。この間書いた「東洋と西洋のはざまで」の中で感じたのですが、西洋医学の先生が言う「首の痛みの原因は首にあるんだよ」っていうのは、その道の専門家の見立てとして「なるほど」と思う。けれど、東洋医学の「首の痛みの原因は小腸にある」という見立てに対して「それは間違っている」というのはちょっと違うなと思ったのです。その見立てについては、その専門でないなら「わからない」というのが本当であって、「わからない」と「間違っている」を混同してはいけないなと。

とか、そういうことは、その後に有意義な何かが生まれそうな気配を感じないかぎり話題にあげないので、そのお医者さんを前にしては言いませんでしたが…。その先生はその先生で、自身の専門性に誇りをもった、いいおいちゃんだったのです。

でも私自身のふるまいとして肝に命じたいと思ったのは、人は自然と既知のことに信頼をおくものなんだとわきまえて、自分にとって未知のものを意識的に取り込んでいく豊かさをもつこと、「わからない」と「間違っている」を混同しないこと。ごにょごにょとそんなことを思う日々です。

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